2020年1月17日金曜日

アンティーク バカラ レカミエ BACCARAT RECAMIER


写真の金彩入りがレカミエ、金彩なしがセビーヌ(セヴィニェ)
同形状同エッチングでもモデルで金彩ありとなしでモデル名が異なります。

こちらは珍しいビールセット。ブログには前からセビーヌ(セヴィニェ)として掲載していましたが、金彩入りなので正確にはレカミエになります。
非常に珍しいビールのサービス用のセットです。
クリスタルのお盆に細長い円錐台形のピッチャーとシンプルでスリムなシェイプのグラスのセットで、セビーヌ独特の控えめなエッチングと縁に金彩が施されていて、あまり金彩好きでない私まで、なんともエレガントとうっとりしてしまいます。


1907年のカタログのセビーヌのビールセットのピッチャーは上に幾何学パターンにエッチングが入り、セビーヌのエッチングが下部に施されていますが、1916年のカタログではその上下の模様の位置が逆転しますので、この品の様にセビーヌエッチングが上にありバカラマークのないこの品は1910-20年頃の製品と推定します。


ビールグラス:直径6.25ø H=12cm  満水容量:300ml
ビールセット ピッチャー:最大直径11.6ø H=24cm W=15cm  容量:1300ml (上部エッチング上面までで)
アンティークバカラ セビーヌ ビールセット トレー:最大直径30ø H=2.5cm


1907年カタログ掲載のビール サービス セット

1916年カタログ掲載の単品のピッチャ―とスリムなグラス


名前の由来
フランスでレカミエといえば当然のことながらレカミエ夫人ことジュリエット・レカミエ。
レカミエ夫人
ジュリエット・レカミエ(通称Juliette Récamier,   : Jeanne-Françoise Julie Adélaïde Bernard Récamier, 1777 - 1849)は世界の歴史の中でも、最も美しい女性と言われ、19世紀フラ ンスの文学・政治サロンの花形となった女  です。
特に皇帝になったナポレオンに、宮廷名誉夫人(というと聞こえが良いですが正式な愛人いわゆる公妾)になるよう4回申し込まれても袖にし続けたことでつとに有名。
強く美しい目をもった,聡明で教養の高い美しい女性で、髪型は当時としては珍しいショートカット、ギリシャ風の衣装ヒマティオンを好み、肖像画では皆ヒマティオンをまとっています。性格は非常に信念が強いだけでなく忍耐強く、頑固だったと言われています。
ジュリエット・レカミエは1777 年リヨンで公証人の娘として生まれ、1793年に16歳で26歳年上の裕福なパリの銀行家ジャック=ローズ・レカミエ と結婚。当時からジャックは事実上ジュリエットの実の父で、彼女を自分の 正統な相続人とするために結婚したのではないかと言われていました。 2人の間に夫婦らしい関係はなかったと言います。
1797年頃から、つまり20歳頃から社交界にデビューし一躍パリ社交界で注目され、間も無く自宅でインテリの集まるサロンをオーガナイズするようになります。
フランス語版のウィキぺディアによると職業はSaloniereとあり訳すると「サロンを開く人」ということになります。サロンと言ってもおそらく日本にずっとお住まいの方にはピンとこないかも知れませんが、自宅に知識人を招いて、意見や情報交換をする場として西欧の文化発展には極めて重要な役割を果たしていました。サロンによりテーマは色々で政治サロンもあれば文学サロンもありますが、サロンの特徴は所謂ただのパーティーやディナーではなく意見交換が極めて大きな要素になり、重要人物を招いてのサロンが開ける人脈と内容があれば社会の文化、政治面でその国の動向に大きく影響を与えることも可能でした。
フランス革命後の1799年から執政政府期 (1799 - 1804)には彼女が開いたサロンには、元王党派を含む 多くの文人や政治家が集まります。ジャン =バティスト・ベルナドット(のちの  ウェーデン王カール14世ヨハン)やジャ ン・ヴィクトル・マリー・モロー もい たといいます。この頃からスタール夫人、シャトーブリアン、 バンジャマン・コンスタンと親交を結びます。 特にシャトーブリアンとは生涯深い友情で結ばれ、シャトーブリアンは晩年の夫人のサロンにも通い続けます。

アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール
フランス批評家小説家。フランスにおける初期のロマン派作家として政治思想、文芸評論などを行いました。レカミエ夫人と反皇帝ナポレオンという立ち位置を共有します。


アンリ=バンジャマン・コンスタン・ド・ルベック
スイス出身のフランス小説家思想家政治家心理主義小説の先駆けとして知られる。長年スタール夫人の愛人だったのですが後年レカミエ夫人に熱心にアプローチします。

1804年に、ナポレオンが皇帝になったとき、スタール夫人とともにレカミエ夫人反対します。

皇帝になったナ ポレオンは、かねてから自分の弟が熱を上げていたレカミエ夫人を愛人にするために、彼女への贈り 物をしますが、この肖像画が ジャック=ルイ・ダヴィッド に依頼制作した肖像画『レカミエ 夫人』。
レカミエ夫人本人には気に入られず未完成に終わってしまったそうです。

ナポレオンの再三にわたる申し込みを断わり続けたレカミエ夫人は、帝政時代のナポレオンと対立し、1811年にパリを追放されたため、 故郷リヨンやローマ、ナポリに滞在。ローマ滞在中は当時きっての彫刻家のアントニオ・カノーヴァと知り合い、彼制作のレカミエ夫人の半身像が残されています。
アントニオ・カノーヴァ作のレカミエ夫人胸像

レカミエ夫人を描いたデッサン。作者不明ですが綺麗なので。。。
 ナポレオンの工作によって、夫のジャックの資産が無くなり始めたため、1815 年、スイスに隠遁するスタール夫人を訪ね、レカミエ夫人は夫との離婚を画策したと言います。若い頃サロンの常連でレカミエ夫人に熱烈な好意を持っていたプロ イセン王子アウグスト・フォン・プロイセンとの結婚を考えていたといわ れています。しかし夫は 離婚に応じず、やがて全財産を失った彼女は1819年にパリのオー・ボワ修道院(パリ7区レカミエ通り界隈)へ引きこもります。
修道院に引きこもったと言っても修道女になったわけではなく、このパリのオー・ボワ修道院には上層階をブジョワの裕福層にアパートを貸していたのです。レカミエ夫人は初め小さなアパートを借りますが、またしてもサロンが開けるよう広めのアパートに移ります。
レカミエ夫人が晩年を過ごしたパリのオー・ボワ修道院

ここへも頻繁にに通ってきたのが当時最な重要な文化人と評価されていたシャトーブリアンですが、他ににも19世紀フランスの文芸評論家・小説家・詩人。ロマン主義を代表する作家の一人で、19世紀のフランスを代表する小説家オノレ・ド・バルザックや近代批評の父とも言われるシャルル=オーギュスタン・サント=ブーヴ、哲学者、政治家ヴィクトル・クザンた俳優のタルマなどがレカミエ夫人のサロンに集まったといいます。
シャトーブリアン   
オー・ボワ修道院のレカミエ夫人のサロン風景(1849) 
左側の壁にシャトーブリアンの肖像画らしきものが見えますが、本当に常連客の肖像画があったのでしょうか?特見ると暖炉の向こう側の小さい絵はスタール夫人のような。。。

1849年にパリ市内でコレラが流行した時に、オー・ボワ修道院を後にし姪夫婦の住む国立図書館に引っ越しますが、同年病に伏せ息を引き取ります。




年を重ね、病がちにな ってもレカミエ夫人はその魅力を失わな かったといわれれています。 きっと内面から滲み出てくる美しさの方が強かったのでしょう。

2020年1月5日日曜日

アンティークバカラ ルイ15世 BACCARAT LOUIS XV

 LOUIS XVの金彩シリーズ


今回入手したLOUIS  XVのシャンパンクープグラス



フランスではシャンパン - ソーサー型グラス、所謂シャンパンクープグラスの原型は、胸フェチだったルイ15世を喜ばせようと美貌の才媛の公妾ポンパドゥール夫人の胸を 模してガラス 職人に注文、製造させたというのが通説です。

本当のところはポンパドゥール夫人の登場より一世紀前の1663年にスパークリングワインやシャンパンを飲むためにイングランドで作られたらしいのですが、ポンパドゥール夫人の胸と思ったほうが女性の私でも面白いですし(笑)もしかしたらクープグラスはイングランドからフランスには伝わらず、フランスでは本当にポンパドゥール夫人の胸を 模して始まったのかもしれません。

ちなみにシャンパンクープグラスはその誕生から1970年代に至るまでフランスで愛されていたほか、アメリカでは1930年代から1980年代まで流行していたそうです。

クープグラスはフルートグラスよりも香りを感じ取りやすいけれども炭酸がすぐに抜けてしまうという甲乙ありのグラスですが、個人的にはシャンパンやスプマンテはクープグラスでなければ贅沢さが感じられない。特に何かのお祝いの時には絶対クープグラスでなければとこだわっています。

1907年カタログページ



ルイ15

ルイ15(1715-1774) は太陽王と呼ばれた曾祖父ルイ14世の死によりわず 5歳で即位することになります。

5歳のルイ15世の戴冠式


ルイ15世の王冠


ルイ15世の成人前はルイ14世の甥のオルレアン公フィリップ2世摂生の座に就き政務をしきり、成人後はブルボン公ルイ・アンリ、フルーリー枢機卿が執政します。
フルーリー枢機卿は1726年から死去する1743年ま で、ルイ15世の信任の下フランスを統治します。こ の時期はルイ15世の治世下では最も平和で繁栄した時代であり、ルイ14世期の戦争による人的物質的損失からの「回復」の時代(gouvernement “réparateur")と呼ばれています。

フルーリー枢機卿の死後は親政を行いますが、ルイ15世はあまり政治には興味がなく、公妾のポンパドゥール夫人やデュ・バリー夫人が政治に大きく干渉したことは、つとに有名です。



出産適齢期で健康で子供がたくさん産めそうだという理由で選ばれた
元ポーランド王の娘 王妃 マリー・レクザンスカ

ルイ15世ははじめマリー・レクザンスカを熱愛し11人の子をもうけますが、9人は女性で男性は2人のみ。
そのうちフィリップは夭逝。長男ルイ・フェルディナンはルイ16世の父にあたります。

王妃がほぼ年中妊娠していたこともあっ て、ルイ15世は1734年頃から公的愛妾を持つようになり 1739年以降、ルイ15世は国王が病人に手を触れて病を治す奇蹟の儀式を止ます。これは不倫を繰り返すルイ15世が自ら、神聖な儀式を行う資格がないと考えたためだそうです。


ルイ15世の3人目公妾シャトールー公爵夫人 
ルイ15世は1744年のオーストリア継承戦争 で戦う軍隊の指揮を執るためアルザスに出征した際このシャトールー夫人を同行させたことで世間の不評を買います。
27歳で亡くなり夫人の死後ルイ15世はひどく落胆したといいます。


ルイ15世の公妾になってまもない頃の初々しいポンパドゥール夫人


初の貴族出身でない王の公妾ですが裕福なブルジョワ出身でその美貌と教養で有名。
政治に関心の薄いルイ15 世に代わって権勢を振るうようにな ります。
1750年以降は公妾を退き、国王とは 友人として付き合った。性的関係はなくなった後も彼女は国王から深く信頼され有力な助言者となります。 

公妾になったポンパドール夫人はあちこちに邸宅を建てさせます。現大統領官邸エリゼ宮は彼女の 邸宅のひとつですし、マリーアントワネットが引きこもった有名なプチトリアノン宮殿は元はルイ15世がポンパドゥール夫 人のために建てさせたものでしたが、彼女の生前には完成しなかったのです。 
浪費を批判されつつも啓蒙思想や芸術をを擁護した功績は広く認められていますし、1756年には、オーストリア のマリア・テレジア、 ロシアのエリザヴェータ と通じ反プロイセン包囲 網を結成し「3枚のペチコート作戦」を遂行します。特に宿敵オーストリアとの和解は 交革命と言われるほど画期的であり、和解のために後年マリー・アントワ ネットがフランス王室に嫁ぐこととなります。 


美貌ばかりでなく学芸的な才能に恵まれ、 サロンを 開いてヴォルテールやディドロなどの啓蒙思想家と親交を続け、百科全書派を教会の攻撃から守り、百科全書の刊行を実現させた功績もポンパドゥール夫人のものです。


ポンパドゥール夫人の肖像画。 


よく見ると机の上に百科全書が。


国政の方に話をもどしますと、1748年に結ばれたエクス・ラ・シャペル条約では元ロレーヌ公フラ ンソワの神聖ローマ皇帝位を承認しネーデルラントの占領地を 返還するという、フランスに全く利益をもたらさない結果となり、ルイ15世は国民から酷く不評を買うことになり、その人気は凋落したと言います。 また七年戦争のために財政はひどく悪化して おり、このため財務総監マチュー・ ダルヌヴィル は聖職者、貴族を含む 全国民を対象とした「二十分の一 税」の導入に取り組みましたが、新税の導入には免税特権を侵される聖 職者、貴族が猛反発し、パリ高等法 院は王令の登記を拒んで抵抗 、国王とパリ高等法院が対 立して紛糾します。

鎧姿のルイ15

七年戦争でオーストリア・フランス同盟軍は、名将フリードリヒ2世率いる プロイセン軍に苦戦し、175711月のロスバッハの戦いで大敗を喫した上、アメリカ新大陸の戦いでもフランス軍はイギリス軍に敗れ、 ケベック とモントリオール が陥落します。17632月、パリ条約が結ばれ、フランスはカナダ、ルイジアナ、西インド 諸島の一部を含む広大な植民地を失いポンパドゥール夫人の亡くなる1764年頃には国家財政はかなり厳しくなります。

それまでクリスタル器はボヘミアからの輸入に頼っていたフランスは貿易赤字を少しでも抑えるために、ルイ15世はバカラ 村にクリスタル工場の建設を許可します。バカラ 創業にはそんな歴史的な背景もあるのです。


ルイ15世の晩年の数年は外務卿兼陸軍卿ショワルーズ公が政権を担いその実績は多くの歴史家から評価されています。

1765年、王太子ルイ・フェルディナンが死去します。ルイ・フェルディナンの長男と次男は夭逝しており、三男のベリー公が ドーファン (王太子、後のルイ16)となり、ショワズール公はオーストリアとの同盟関係を 強化すべく、新王太子とマリア・テレジアの皇女マリー・アントワネット との政略結婚をまとめ、婚儀は17705月に行われます。


ルイ15世最後の公妾デュ・バリー夫人

貧しい家庭に私生児として生まれ若い頃は娼婦同然の暮らしをしていたと言われ、マリーアントワネットと犬猿の仲だったことでも有名。
ルイ15世が老境に入った1768年、王妃マリー・レクザンスカが死去する1か月前から公妾となり王の死のすこし前に追放されるまでまで寵愛を受けます。
フランス革命で処刑された人々の中でギロチンを直視できず許しを乞い取り乱したのは彼女だけだったそうで、皆が彼女のように恐れ慄く態度をとっていたら、人々はどんなに恐ろしい処刑をしているかもっと早く認識できて恐怖政治はもっと早く終わっただろうという説もあります。
晩年のルイ15

ルイ15世は1774年天然痘の悪化で崩御。
こうして彼のプロフィールを追っていくと多くの女性を愛し、政治面では「あとは野となれ山となれ」的な王様だった印象を否めませんが、彼と関わった女性達、特にポンパドゥール夫人が華やかで文化的にも広く貢献していますし、評判の悪いデュ・バリー夫人も実は朗らかで気さくな性格の人物だっとというエピソードも残っていますので、良しとしましょうか。。。