エミール・ガレのガラス器、エミール・ガレに関しては一度には網羅しきれないので今回のブログ記事は「I 」とします。続きはいつになるかわかりませんが。
エミール・ガレというと濃厚なカラートーンのカメオガラスを連想する人が多いのではないかと思うのですが、個人的には19世紀末の濃厚な香りがするカメオグラスより(もちろんそれが好きだという人も多いと思いますが)、タイムレスなガレのエナメル彩のガラス器にとても惹かれます。
希少で単価が高いのでネットのみの販売、破損のリスクのある輸送、など諸々考えると転売用としては躊躇しざるを得ないアイテムです。
写真は今年の年頭のご挨拶にでも掲載したエミール・ガレのシリーズのエナメル彩のリキュールグラス。
昨年末に6客セットで購入した品です。値段がつけられず、転売の予定をしていないので「仕入れた」とは書けません。
直径53mm 高さ87mm満水容量50ml程度の小さなリキュールグラスですが、一客一客異なる手描きのエナメルが散りばめられています。
一つひとつ異なるエナメル絵付け
足部にも最低2種類のエナメル絵付けが入っています
本体にガレのサインはありませんが、このシリーズのクープグラスが2022年の初頭にフランスのオークションハウスでオークションにかけられていた際のオークションハウス説明によると「付け絵と同じエナメルでのガレのサインはないが、小さな紙のシールにガレのサインがある」とのことでした。
落札額は1客で1850ユーロ。仮にオークションハウスのマージンを30%として加算し、円に直すと1客35万円を超える事になります。
見惚れながらも私の扱えるような価格帯の品ではないので画像だけでもコレクションしておこうと、沢山撮ったスクショを保管していたのですが、年末に、サイン付き紙のシールのないリキュールグラスが売り出されたものを購入しました。
ガレのエナメル彩のグラスには、大半がエナメル(?)でサインが入っていてこのクープグラスの記述にあった紙のシールのサインというのがどのようなものか検証できないでいたのですが、先日イタリアのオークションハウスに出品された品物がサインなし、シール付きだったのでここにご紹介します。
冒頭にも書いたようにエミール・ガレと言うとエナメル彩のガラス器よりカメオグラスを連想する人の方が多いかもしれません。骨董市場で出回る品もカメオグラスが多いことから、製造数も多かったのではと想像します。(あくまで想像)
ガレのカメオグラスは、オリジナルのものだけではなく、東欧でレプリカ品が多く作られていて、私の住んでいる北イタリアの古道具屋などでもレプリカ品はさほど入手は困難ではありません。
レプリカ品でもガレのサインが入っているのですが、本物のガレのものとレプリカ品がの見分け方は、東欧のレプリカ品はサインが器の上半分に入っているとどこかで読んだことがあります。(出典が見つかりません。。。失礼!)
カメオグラスの歴史は紀元前に古代ローマで生まれたと言われていて、紀元前30年とされていますが、カメオグラスの技術が開発されて以降19世紀に渡り古代ギリシャ、古代ローマ的なローマ時代のカメオグラス同様人物像がモチーフが中心でした。所謂カメオのブローチのようなものと言えば簡単に想像できると思います。
ガレが植物モチーフを導入するまでは
こういったローマ風のデコレーションが一般的でした。
カメオグラスへのガレの功績は、そこに19世紀末フランスで大流行していたアールヌーボースタイルを取り込み、植物モチーフを中心としたことで、イメージを一新します。
これを追随してバカラ やヴァル・サン・ランベールなども工業化された技術を利用して、植物モチーフの製品を量産するに至ります。
イタリア語ではバカラ のエグラティエなどに見られるエッチングによるモチーフの工業的プロセスによる削り出しはFALSO CAMEO、直訳して偽カメオ、と呼ばれています。英語では掘り出し部分を普通に「エッチング」と呼んでいる書籍が大半ですが、本場フランスでどう呼ぶかは調べていますがまだ不明。偽カメオというと聞こえが悪いのでエッチング カメオと呼ぶことにしましょう。
もちろんこれはガレの作品ではありません。
人、エミールガレ
アール・ヌーヴォーを代表するガラス工芸家で陶磁器、木工家具デザイナーであったエミール・ガレについては書くべきことが沢山ありますが、ここでは簡単に経歴をまとめます。
エミール・ガレは1846年にナンシーで生まれます。ナンシーのあるムルト=エ=モゼル県は屈指のガラス、クリスタルの産地で。ドーム(Daum)本社がナンシーに、バカラ村も同県内にあります。
植物の遺伝と進化に関しても詳しく、かれか科学者にならなかったのは数学が苦手だったため、と言われています。エミールのスタジオのドアには「私たちのルーツは森の奥深く、苔の間に、泉の周りに。」というもっと描かれていたそうです。
エミールの父シャルルは繊細なエナメルがを得意とする画家でしたが、陶磁器とクリスタルの商人の家で育ったファニー・ライネマーと結婚後、オリジナル商品の製造販売を始め商業的にも成功します。
若い頃のエミールはドイツ語と鉱物学を学ぶためにドイツ、ワイマールに行ったり、ロンドンに滞在したりします。
1867 年に彼は万国博覧会に父親から引き継いだ会社の代表として出席します。
その後自然科学植物学への情熱からナンシーの博物学者であり医師であるドミニク=アレクサンドル・ゴドロンの弟子になったりもします。
またアンティーククリスタルの研究でパリに滞在した時期にアラブ風のエナメル祭の作風で知られるフィリップ=ジョゼフ・ブロカールや当時のフランス、ジャポネスクの旗手であったはウジェーヌ・ルソーに強く影響を受けたと言われています。
アラブ風のデコレーションをかなり直接的に取り込んでいますが、その後バカラのシュバリエがフランス風に咀嚼したアラベスク模様を導入するのにはこういった作品が背景としてあるのかもしれない、と思わざるを得ません。
ブロカール作品は日本のサントリー美術館にも収蔵されています。
上のブロカール作品写真は以下のサイトから拝借しています。
ナンシーに戻った後は、ガラス技術の様々な新しい方法をを探求し、縞自然を模倣することに取り組んでいます。 1875 年にヘンリエット グリムと結婚。その後、1877 年、31歳の時に父親の事業を引き継ぎビジネスを発展させます。
1878年の万博に失点した作品は4つの金メダルを獲得し、その名は一躍世界的に有名になります。
1883年にはガラス工芸、陶磁器、木工のために広い工房を開き、多くの職人や芸術家がエミール・ガレのもとで働くようになります。
その後パリ、シカゴ、ミュンヘン、フランクフルト、ドレスデン、トリノなどフランス内外の様々な都市で展示を展開し、1889年のパリ万博でグランプリを得て、同年フランス最高の勲章と言われるレジオンドヌール勲章を授与されます。
その当時ガレの工房で働く職人や芸術家は300人に登っていました。相当な大企業ということになりますが、それでもガレはコラボレーた。に対し実際の花のモデルを目の前にせずに花を再現することを禁じていたと言われています。
1900年にはキャリアの頂点に至り、ガレ自身はグランプリ二個と金メダル、1898年からガレと仕事を始めたローズ・ワイルドの作品も銅メダルを獲得します。
少し脱線してこのローズ・ワイルドという人についても調べてみました。まず名前ですがローズ・ワイルド=野ばらなどと、まるでガレとコラボするための芸名かと思いましたが本名はローズ・レジーナ・フェルナンド・ワイルド、ですので本名です。1872年同じくナンシーに生まれ、ナンシー派の活動家の中で紅一点の存在で、受賞などで注目を集めましたが1903年行方不明となり、1904年に自殺して32年の短い人生を閉じます。
1811年生まれのシャンパンメーカーPerrier-Jouët (ペリエ ジュエ)のボトルもエミール・ガレの意匠。1902にエミール・ガレに依頼したもので、ガレは日本アネモネをモチーフににデザインを考案、120年以上経った今ででも同じデザインで市場で流通しています。
ガレは1902年にパリ国立美術協会およびいくつかの科学協会の会員になった後、1904年に死亡します。死因に関しては、職業病と結びつけようとする説が様々ありましたが、実証はできていません。
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そのように受賞勲章とキャリア面では輝かしいガレでしたが芸術家であることで世界との接点を失ってはいけないと考え「美は単に表面的な快感であってはならない」と、不当な政治を訴えるために活動します。
またフランス人権連盟創設の 1 年後、1898 年 10 月にチャールズ・ケラーおよびヒポリット・ベルンハイムとともにナンシー支部を設立。
エコロジーの先駆者の一人でもあり、ナンシーの野生植物保護協会の設立に参加しています。
また当時大事件として扱われたドレフュス事件に関し、フランス陸軍内部に情報漏洩者として反逆罪で逮捕されたユダヤ系フランス人陸軍軍人アルフレド・ドレフュスの無罪を主張したことでナンシーの多くの市民から嫌われるようになり、会社の売り上げの暴落にまで影響します。その不人気はガレと彼の妻を見かけると人々が反対側の歩道に移るほどだったとさえ言われます。
ガレがそれほどの不人気になるほど擁護したアルフレド・ドレフュスは1899年9月19日に釈放され、1906年に最終的なに免責を受けます。ガレの判断が正しかったわけです。