2026年7月30日木曜日

バカラ 青海波文四方向付 BACCARAT RINCE-DOIGT


日本では「春海好み、バカラ 青海波文四方向付」などと呼ばれていることの多い品でで、和食を盛り付けると非常に映える角鉢です。



サイズは口が100 x 100 mm 高さ55 mm

レンズのせいかうまく写真に撮れていませんが

下部の広がった部分の最大寸法は117x 117 mm


縁に金彩のある品とない品があります。



バカラ以外サンルイなどでも似た様な品を製造していましたが地紋や地紋の入り方などが異なります。



バカラの地紋


実際には西欧のアンティークではではフルーツポンチやアイスクリーム以外の料理を「鉢状」の器をしようすることはなく、本来の用途はフィンガーボウルなのです。


なので探すのもRINCE-DOIGT(フィンガーボウルの意)と言って売り出されることが多いです。


ただ、カタログで確認しようと探してもフィンガーボウルとしては見つからず、これが似ているかもというものはRINCE-BOUCHE(口すすぎの意)と書かれていてソーサーと小さなグラスのセットになっています。


RINCE-BOUCHEというのは昔食後に香りの良い水がサーブされ口を濯ぐのに使われたそうで、小さなグラスに香りの良い水が入れられて、大きめの器に吐き出していたのではないかと思いますが、食卓で口を濯ぐ様子などはあまり想像したくありません。


実際にRINCE-BOUCHEとしてセットで売り出されていたのを見たことはなく大抵は角鉢だけがRINCE-DOIGT(フィンガーボウル)として売られています。



1907年のカタログのRINCE-BOUCHE

これに似た角形の品は右下 S.547


2026年5月13日水曜日

アンティークバカラ ブリュイエール BACCARAT BRUYE’RE (424)




アールデコ期の品で、幅の細いフラットカットが上方にスッキリと伸びるデザインが独特です。


リキュールセット424 BACCARAT SERVICE A LIQIUORE 424のカタログページしか持っていなかったのでずっとバカラ424と呼んできましたが、最近になって複数のオークションハウスが ブリュイエール、BRUYE’REと呼んでいるのを見つけたので名前の由来を加筆して新しいページ設けることにしました。



1938年の写真カタログ





とても90年前の品とは思えない、タイムレスなデザインです。


シャルムと同型で吹かれていて、カットが異なります。

印象としてはシャルムより新しい感じがしますが、1938年のカタログでは同じページに掲載されています。シャルム同様バカラマークのない品もあるのでリリースは1930年代初頭になります。



サイズリスト




リキュール セット







「名前の由来」


最近になって知った「ブリュイエール BRUYE’RE」という名前が、単なるコレクター間の通称なのか、正式名称なのかは分かりません。


「ブリュイエール BRUYE’RE」という言葉にはいくつかの意味があります。


最も可能性として高いと思われるのは冬に可愛らしい花を咲かせる「エリカ」。

日本語でもイタリア語でも「エリカ」ですが、フランスで通称「ブリュイエール BRUYE’RE」と呼ばれています。


花の咲いた小さな株が曲線を描きながら上方向に伸びている姿は、このグラスのイメージと重なります。




「エリカ」






他に木製パイプなどに使用される木の根の部分の木材をフランス語では「ブリュイエール BRUYERE」と呼びます。



木の根の部分の木材




人名としては最も有名な人物は17世紀のモラリスト作家「ジャン・デ・ラ・ブリュイエール Jean de La Bruyère」が挙げられます。



 


ジャン・デ・ラ・ブリュイエール肖像画

ベルサイユ宮殿所蔵 作者不明




その他の著名人には1879年生まれのエジプト学者で考古学者ベルナール・ブリュイエールがいて、1922年から1940年と1945年から1951年までエジプト王家の谷の墓の掘削と装飾に従事する職人たちの村デイル・エル・メディナで発掘作業を行います。


192210月にイギリスのエジプト学者で考古学者のハワード・カーターにまだ調査していない場所、すなわちラムセス6世の墓の入り口のふもとを探索することを提案したのはベルナール・ブリュイエールで、そこでハワード・カーターの率いる発掘団はツタンカーメンの墓を発見したと言われていて、その後も多くの重要な発見をします。

数多くのレポートの他「ベルナール・ブリュイエール発掘日記」を書いています。




ベルナール・ブリュイエール発掘の一つTT219

1928年発見

Photo©Mutnedjmet

 

2026年2月22日日曜日

ヴィンテージ ローゼンタール RC26 ・ROSENTHAL RC26


珍しくフレンチクリスタルではない70年代のローゼンタールのグラスを入荷したのでご紹介します。

1969年リリースでいかにも70'sなシェイプですが、どことなくアールデコの時代のサンルイのディアマンを70年代風に変化させてようにも見えます。

それなりに美しいデザインなのでブログでもご紹介する事にしました。




RCという品番はローゼンタールクリスタル、という意味でしょうか???

いずれにしても歴史的に意味のある名前がついている訳ではないので、恒例「名前の由来」は割愛します。



2025年11月26日水曜日

BACCARAT MARENNES FORME 8763 TAILLEGRAVURE N.9006 バカラ マレンヌ  フォルム8763 グラビュールカット9006



1900年代初頭のバカラ製品で最も美しいと言われるマレンヌです。

普遍的な美しさです。

もちろん美には大きく主観が入るのが普通ですが、日用品でありながら直線的なシェイプに施された優美な曲線のグラビュールカットが見事であることはどなたにも納得いただけると思います。








1907年のカタログページ






<名前の由来>


マレンヌ MARENNES とはフランスの地名。

スードル川の河口右側で成長したま ちで、現在は牡蠣の大生産地。県の重要な交通網の軸 のフランス西部の大西洋岸の街の名前です。




でもこんな素敵なグラスの名前になるくらいなら、それだけではなくて何か特別な歴史のある土地ではないかと調べてみました。



マレンヌの旧市街


歴史的には百年戦争ではイングランド軍から繰り返し攻撃され、町や教会を破壊されます。


経済的には16世紀頃から塩の生産や鱈漁として栄え、1702年にはサントンジュにおける海軍司令部が置かれた。貿易や王室の行政で富を集めた貴族やブルジョワが美しい門を備えた豪奢な邸宅が建て始めます。 1749年には現在も主要な観光スポットとなっている美しいゴトーディエール城が建てらます。 


19世紀初め、ナポレオン1世の フランス第一帝政時代に確実に衰退、第二帝政時代に牡蠣の養殖産業が始まると養殖業は急速に地元経済の主流を占め、古くからある 塩の湿地帯はカキ養殖場 に変わっていき、第三帝政時代には街の黄金期を迎えます。


ゴトーディエール城


その後19世紀に入り、ボルトガル種の牡蠣が疫病でほぼ全滅し、日本種牡蠣が取り変わった、などとの記述もありますが(ということはフランス、あのパリで食べた牡蠣は今では日本種ということに。。。。)、


、、、という感じで街の歴史を読んでもそういう産業のはなし話ばかりで、書いて楽しいような華麗な著名人物の話などは出て来ず、興味深いエピソードはなさそうだったのですが、ゴトーディエール城の歴史を調べたてみましたら、ちょっと関係がややこしいのですが、歴史上の著名人物が登場してきました。


ゴトーディエール城の建設は国王付技師フランソワ・フレノー(1703-1770)でフランソワ・フレノーの孫娘は、1794年に、後にイタリア軍、当時は大陸軍の工兵隊を指揮する将軍となるフランソワ・ド・シャスルー・ローバと結婚したため、ラ・ガトーディエール城はミュラ・ド・シャスルー・ローバ家の所有物となりました。

その後、マグダレーヌ・ド・シャスルー・ローバ侯爵 は、1923年にアシール・ミュラ王子 と結婚します。


このアシール・ミュラ王子は、ジョアシャン・ミュラとその叔父であるフランソワ・ド・シャスルー・ローバ侯爵 (1904-1968) の曾孫にあたります。


ジョアシャン・ミュラとは、元々はホテル経営者11人の末息子として生まれますが、ナポレオンの遠征で活躍し貴族の称号を受け、美男でもありナポレオンの妹のパオリーヌと結婚し、後にフランス勢力内にあった現在はイタリアの、ナポリ王国と両シチリア王国の国王になります。



パリのオルセー美術館に収蔵されている

オーギュスタン・エメ・ジョセフ・ルジューヌが1877年に撮影した

マグダレーヌ・ド・シャスルー・ローバ侯爵写真 

側面やや後ろから撮った独特の構図で侯爵の雰囲気をよく出しています。

版権保護のため直接画像は転載はしませんがリンクはこちら。

https://www.musee-orsay.fr/fr/oeuvres/marquise-de-chasseloup-laubat-64490



現在のガトーディエール城オーナーの祖先ジョアシャン・ミュラ




ジョアシャン・ミュラの妻でナポレオンの妹

パオリーヌ・ボナパルトと子供達