2026年10月31日土曜日

アンティーク バカラ ジュヴィシー(エリゼ)BACCARAT JUVISY (ELYSE’E) Forme 35Jambe taille pied étoile Taille Losange à flots




ネットでバカラのジュヴィシーを検索したらAIモードにもしていないのAIから返答。

それによると


「このモデルは元々1867年パリ万博のために原型が作られ、その後1899年にパリの大統領官邸エリゼ宮の公式晩餐会用に正式採用され現在に至っています。

またエリゼ宮で長年使用されている事からアンティーク市などでは「エリゼ」と呼ばれることもある、そうです。」


光が当たると重厚な煌めきが華やかでエリゼ宮の公式晩餐会用に採用されたのも納得のいく逸品です。


一応1907年のカタログを見るとジュヴィシーまたはエリゼといった名前表記は無く。

Forme 35Jambe taille pied étoile  Taille Losange à flots

「フォルム35、脚面取りカット、ベース星状カット、フロート付きダイヤモンドカット」の意

と記載されています。


1907年のカタログページ


いつ頃からジュヴィシーまたはエリゼと呼ばれる事になったのかは不明です。




エリゼ宮 (庭園側から)

Photo©Di Thomas Faivre-Duboz


エリゼ宮でテーブルにセッティングされているジュヴィシー

Photo@Chatsam



エリゼ宮で円卓にセッティングされているジュヴィシー

Photo@Florent Pécassou


エリゼ宮でテーブルにセッティングされているジュヴィシー

https://www.sortiraparis.com/it/cosa-visitare-a-parigi/storia-patrimonio/articles/349206-e-possibile-visitare-il-palazzo-dell-elysee-la-residenza-del-presidente-della-repubblica-francese


バカラの製品は西欧的に3、4客1度にテーブルセッティングするのが似合うリシュリューの様なモデル、単独の方がチャーミングなエトワールの様ななモデルがありますが、このジュヴィジーは単独でも品があり、3、4客テーブルセッティングすると華やかになるオールマイティーなアイテムです。


現代のインテリアの中で4客テーブルセッティングした写真も撮ってみました。






名前の由来


ジュヴィジーという名前は、ジュヴィジー=シュル=オルジュ(街の正式名称はジュヴィジー=シュル=オルジュ Juvisy-sur-Orge ですがジュヴィジーとだけ呼ばれることも頻繁)、フランスのイル=ド=フランス地域圏エソンヌ県、セーヌ川沿いに位置し、パリの南東19キロメートル土地の名に由来していると考えて良いでしょう。


歴史のある街で、古くは古代ローマ共和国のユリウス・カエサルの紀元前58-50年頃の『ガリア戦記』にガリア人の野営地であったジュヴィジーに関して記述が残っています。


1563年、シャルル9世はフォンテーヌブローへ向かう途中、ジュヴィジー荘園で休息をとり、1598年以降、アンリ4世も頻繁にこの地を訪れたという記録も残っています。


最初の教区教会は1624年に建てられ、聖ニコラに捧げられました。1630年からはアントワーヌ・ロシニョール・デ・ロッシュが荘園領主となり、彼は城を拡張し、ルイ13世を幾度ももてなします。


1657年、アンドレ・ル・ノートルの弟子たちがルイ14世を喜ばせるために、セーヌ渓谷を見下ろす公園を造営しました。



「ルイ14世のジュヴィジー城訪問」 

ピエール=ドニ・マルタン画 1690年頃



1717年、この荘園はルイ・ド・ブランカスの手に渡りました。 1728年、彼はリヨンへの道路を再設計し、オルジュ川に橋を架け、そこに2つの壮大な噴水を設置。


1730年には、王宮は宿場に建て替えられます。


1740年、王国の地図作成と地球の半径測定に尽力したジャン・ピカール修道院長とニコラ=ルイ・ド・ラカイユの功績を称え、科学アカデミーはヴィルジュイフとジュヴィジーに2つのピラミッドを建立。これは、標準測量の「基底」の限界を象徴するものであったとされます。


17世紀のカッシーニによるジュヴィジー地方の描写


フランス革命後この城は1807年にオーギュスト・ド・モントシュイ伯爵(1823年には町長を務めた)によって購入されました。


1814年3月30日、ナポレオン1世はフロマントーの宿営地でフランス戦役中のパリ降伏を知り、フォンテーヌブロー城を訪れた後、退位しました。


1840年にジュヴィジー駅が開設され、1893年にはセーヌ川に架かる数少ない橋の一つが建設されたことで、鉄道と道路の要衝となったジュヴィジーは、第二次世界大戦中の1944年4月18日、連合軍の爆撃によって半壊した。戦後の経済ブーム期、いわゆる「栄光の30年」に再建され、現在も旅客数の非常に多い駅になっています。


1882年には、カミーユ・フラマリオンは丘の中腹にジュヴィジー=シュル=オルジュ天文台を設立、20世紀初頭には、セーヌ川(水泳、ヨットレース、ボート競技など)だけでなく陸上でもスポーツ競技会が開催された(1912年のL'Auto国際クロスカントリー大会、1913年にジャン・ブーアンが優勝した五カ国クロスカントリー大会、1914年と1920年にジュヴィジー飛行場(Port Aviation)で開催されたパリクロスカントリー選手権など)など交通の便を生かしたイヴェントも多く開催されます。


もちろんその後も各種イヴェントが開催されますが、このグラスシリーズがジュヴィジーと呼ばれるようになった遥かに後の出来事については、このブログ割愛します。


ジュヴィジー市庁舎 

Photo@Chabe01

2026年7月30日木曜日

バカラ 青海波文四方向付 BACCARAT RINCE-DOIGT


日本では「春海好み、バカラ 青海波文四方向付」などと呼ばれていることの多い品でで、和食を盛り付けると非常に映える角鉢です。



サイズは口が100 x 100 mm 高さ55 mm

レンズのせいかうまく写真に撮れていませんが

下部の広がった部分の最大寸法は117x 117 mm


縁に金彩のある品とない品があります。



バカラ以外サンルイなどでも似た様な品を製造していましたが地紋や地紋の入り方などが異なります。



バカラの地紋


実際には西欧のアンティークではではフルーツポンチやアイスクリーム以外の料理を「鉢状」の器をしようすることはなく、本来の用途はフィンガーボウルなのです。


なので探すのもRINCE-DOIGT(フィンガーボウルの意)と言って売り出されることが多いです。


ただ、カタログで確認しようと探してもフィンガーボウルとしては見つからず、これが似ているかもというものはRINCE-BOUCHE(口すすぎの意)と書かれていてソーサーと小さなグラスのセットになっています。


RINCE-BOUCHEというのは昔食後に香りの良い水がサーブされ口を濯ぐのに使われたそうで、小さなグラスに香りの良い水が入れられて、大きめの器に吐き出していたのではないかと思いますが、食卓で口を濯ぐ様子などはあまり想像したくありません。


実際にRINCE-BOUCHEとしてセットで売り出されていたのを見たことはなく大抵は角鉢だけがRINCE-DOIGT(フィンガーボウル)として売られています。



1907年のカタログのRINCE-BOUCHE

これに似た角形の品は右下 S.547


2026年5月13日水曜日

アンティークバカラ ブリュイエール BACCARAT BRUYE’RE (424)




アールデコ期の品で、幅の細いフラットカットが上方にスッキリと伸びるデザインが独特です。


リキュールセット424 BACCARAT SERVICE A LIQIUORE 424のカタログページしか持っていなかったのでずっとバカラ424と呼んできましたが、最近になって複数のオークションハウスが ブリュイエール、BRUYE’REと呼んでいるのを見つけたので名前の由来を加筆して新しいページ設けることにしました。



1938年の写真カタログ





とても90年前の品とは思えない、タイムレスなデザインです。


シャルムと同型で吹かれていて、カットが異なります。

印象としてはシャルムより新しい感じがしますが、1938年のカタログでは同じページに掲載されています。シャルム同様バカラマークのない品もあるのでリリースは1930年代初頭になります。



サイズリスト




リキュール セット







「名前の由来」


最近になって知った「ブリュイエール BRUYE’RE」という名前が、単なるコレクター間の通称なのか、正式名称なのかは分かりません。


「ブリュイエール BRUYE’RE」という言葉にはいくつかの意味があります。


最も可能性として高いと思われるのは冬に可愛らしい花を咲かせる「エリカ」。

日本語でもイタリア語でも「エリカ」ですが、フランスで通称「ブリュイエール BRUYE’RE」と呼ばれています。


花の咲いた小さな株が曲線を描きながら上方向に伸びている姿は、このグラスのイメージと重なります。




「エリカ」






他に木製パイプなどに使用される木の根の部分の木材をフランス語では「ブリュイエール BRUYERE」と呼びます。



木の根の部分の木材




人名としては最も有名な人物は17世紀のモラリスト作家「ジャン・デ・ラ・ブリュイエール Jean de La Bruyère」が挙げられます。



 


ジャン・デ・ラ・ブリュイエール肖像画

ベルサイユ宮殿所蔵 作者不明




その他の著名人には1879年生まれのエジプト学者で考古学者ベルナール・ブリュイエールがいて、1922年から1940年と1945年から1951年までエジプト王家の谷の墓の掘削と装飾に従事する職人たちの村デイル・エル・メディナで発掘作業を行います。


1922年10月にイギリスのエジプト学者で考古学者のハワード・カーターにまだ調査していない場所、すなわちラムセス6世の墓の入り口のふもとを探索することを提案したのはベルナール・ブリュイエールで、そこでハワード・カーターの率いる発掘団はツタンカーメンの墓を発見したと言われていて、その後も多くの重要な発見をします。

数多くのレポートの他「ベルナール・ブリュイエール発掘日記」を書いています。




ベルナール・ブリュイエール発掘の一つTT219

1928年発見

Photo©Mutnedjmet