2017年11月28日火曜日

アンティーク バカラ モリエール BACCARAT MOLIE’RE

2018年1月5日更新


モリエールはカブールと同型でカットの異なるモデルです。
上部に施されたジュドルクのようなカットから下に垂れるように花のおしべのようなカットが伸びています。


1916年のカタログページ

1916年のカタログページの中段は、非常に似たデザインでコルネイユ(フランスの三大劇作家のうちのもう一人)は逆で下部に施されたジュドルクのようなカットから花のおしべのようなカットが上に伸びるように施されています。
一番下はモリエールに極めてよく似ていて角が尖っているカットのロンサール(Ronsard)はルネサンス期の詩人ピエール・ド・ロンサール(Pierre de Ronsard, 1524年 - 1585年)を指しています。モリエール、コルネイユと来たら、何故三つ目もフランスの三大劇作家の最後の一人ラシーヌにしなかったのでしょうか?ちょっと不思議ですね。






モリエール(Molière、1622年- 1673年)は、17世紀フランスの俳優、劇作家。コルネイユ 、 ラシーヌとともに古典主義の三大作家の一人。本名ジャン =バティスト・ポクラン(Jean-Baptiste Poquelin)。悲 劇は不得意で、鋭い風刺を効かせた数多くの優 れた喜劇を制作し、フランス古典喜劇を完成させたと言われています。

モリエール肖像画

三大作家の中でも最も重要といっても過言ではなく、一般に「モリエールの言葉」と言えばフランス語を指すくらいメジャーな存在で、イギリスのシェイクスピアに匹敵する作家であると同時に、太陽王ルイ14世の加護と寵愛を受けるだけでなく当時の貴族にも民衆にも大人気の舞台俳優として自作を演じました。
1987年から継続しているモリエール賞(PRIX MOLIERE)は演劇関連ではフランスで最もプレステージな賞の一つです。



モリエールという芸名の由来は諸説あり確かなことはわかりませんが、友人の間では、音楽家でバレーダンサーのルイ・モリエール (1615? -1688),に由来してるというのが有力です。(日本語版のモリエールに関するウィキペディア全く別の内容が記載されていますが、出典はフランス語版です。)

モリエールの代表作は『人間嫌い』 『女房学校』 『タルチュフ』 『守銭奴』 『病は気から』 『ドン・ジュアン 』 などが挙げられます。


モリエールは王家御用達の室内装飾業者という極めて裕福な家庭に生まれ育ち、芝居好きの祖父に連れられて劇場通いをしながら演劇に親しんで育ちます。当時の人気女優マドレーヌ・ベジャール と恋に落ち、極めて順調だった家業を継がず演劇を志す意志を描かめます。劇団を結成します。が、当時まだ常設劇場 が二つしかないパリで貴族の庇護 も受けず運営に失敗し、数日間とはいえ負債で投獄されるにまで至り1645年の公演を最後にパリにはいられなくなり南仏のドサ回りにでます。

マドレーヌ・ベジャール 

南フランス巡業時代についてあまり詳しくはわかって いませんが、とにかく、13年間の南フランス演劇修行の旅に出ます。この長い南仏の下積み時代には多くの人達の助けを得て徐々に演劇の評判を高め、経済的な基盤も固めます。
日本語版のモリエールに関するウィキペディアには嫉妬や陰謀などモリエールを取り巻く周りの人のネガティブな感情が強調されていますが、フランス語版では当時モリエールと旅の途中で知り合った人や、旅の一部に同行した人々は、「モリエールは率直かつ謙虚でで寛大で自由な精神を持った素晴らしい人柄で、劇団の人達はみな暖かく居心地の良い上に美食家揃いだった。」など、その素晴らしい人間性が語られています。
1656年11月、劇団の庇護者の1人であったオービジュー伯爵が 他界。1657年に同じく庇護者の1人であったコンティ公がカトリックへ改宗し、カトリックの秘密結社である聖体秘蹟協会の一員となりモリエールらの劇団は庇護を失うだけでなく「罪深い娯楽」として激しい弾圧の対象となります。当然安定指定だ財政も揺らぎ、それをきっかけに、劇団はパリに帰還することを決意します。
パリ進出のため1658年まずパリの目と鼻の先のルーアンで興行し大成功を収めるだけでなく、ルーアンに滞在中、パリでの庇護者を探す目的で、数回パリへ赴 き、結果、ルイ14世の弟であるフィリップ1世 の庇護を受けることに成功 し、王弟殿下専属劇団(Troupe de Monsieur)との肩書を獲得し、同年10月 24日にはルイ14世の御前で演劇を行うことが許され、大成功を収めます。

こうしてモリエールとその劇団は、国王と延臣たちに気に入られ、プチ・ブ ルボン劇場を使用する許可を獲得 。1658年11月には、パリの観客の 前にデビューし、『 粗忽者』、『恋人の喧嘩』を2-30回上演するほどの成功を収めます。


プチ・ブ ルボン劇場

1660年10月、ルーヴル宮殿の拡張工事のためプチ・ブルボン劇場の解体工事が始まると、モリエールとその劇団は パレ・ロワイヤル の使用権を与えられ、更に貴族たちの館をプライベートな上演を行うなど、 国王の寵愛を集める など、地盤を固めます。

パレ・ロワイヤル改修後の初公演は、確実に成功する喜劇の他に『ドン・ガルシ・ド・ナヴァール 』 というタイトルの悲劇を上演しますが、喜劇の名声が定着していた劇団の悲劇は不評で、この演目はモリエールの生前数回の上演にとどまり、以後モリエールの自作劇は喜劇のみになります。
パレ・ロワイヤル

その失敗から喜劇に専念することを決意したモリエールは『亭主学校』を制作、王侯貴族たちの関心を惹 き、次いで王のために上演させる『はた迷惑な人たち』 を制作します。この作品は国王陛下をはじめ、貴族たちに大評判だっためパリ市民たちの好奇心を刺激し 、一般公演も記録的な大盛況 となります。
その後『女房学校』『 女房学校批判』『画家の肖像』 などを続けて発表し、1664年『強制結婚』の初演がルーヴル宮殿にて行われた。第2 作目のコメディ=バレエ 
1664年1月『強制結婚』の初演がルーヴル宮殿にて行われた。『はた迷惑な人たち』に次ぐ第2 作目のコメディ=バレエ を「王のバレエ」として作成し大好評をはくします。それまでバンスラード が独占していた王のためのバレエを書く権利をモリエールも獲得します。
『エリード姫』では上品で格調高い宮廷の趣味 を満足させるような作品も制作できるという技量を示し、成功の階段を登り続けます。ただ、喜劇『タルチュフ』 に関しては、国王は宗教問題への細やかな 配慮から、作者の善意を疑うものではないとしつつもこの劇の上演は一度きりでその後の公開を禁じられます。 
パリで地盤と定評を固めていた1662年初頭モリエールはアマンド・ベジャールと結婚します。アマンド・ベジャールはモリエールの元恋人マドレーヌ・ベジャールの妹とも娘とも言われていて、娘だとするとモリエールの娘である可能性もあると、モリエールを失脚させたい人々は近親相姦説まで持ち出したと言います。何れにしてもモリエールは自分より20歳若い妻に大変嫉妬深く、あまり幸せな結婚ではなかったようで、子供達もマドレーヌ=エスプリだけが成人しています。
モリエールの妻アマンド・ベジャール

1665年、モリエール劇団は正式に国王ルイ 14世庇護下に入り、「王弟殿下 の劇団」という称号を返上し、「国王陛下の劇団」と 名乗るように申し渡されます。劇団に与えられる年金も 6倍の6000リーヴルに増額されます。実力、人 気、規模で足元にも及ばなかったブルゴーニュ座とモ リエール劇団は対等の地位になります。

太陽王国王ルイ 14世


このような強力な国王の支援を受けて、モリエール は同年第4作目のコメディ=バレエ『恋は医者』を発表。成功を収めます。
1666年末から67年初頭にかけてサン=ジェルマン=アン=レー城で行われた「詩神の舞踊劇(Ballet des Muses)」 に参加します。詩人バンスラードの指揮の下に開かれる祭典「詩神の舞踊劇(Ballet des Muses)」 に参加します。この祭典はバンスラードが13の場面からなるオペラを書くために、モリエール 劇団やブルゴーニュ座、イタリア劇団の俳優たち、それに ジャン=バティスト・リュリ などの音楽家や 舞踊家が協力し、オペラが完成するという体をとっており、舞踊にはルイ14世をはじめとして、 ルイー ズ・ド・ラ・ヴァリエールやモンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス が参加するというもの。モリエールはこの祭典のために『メリセルト』『パストラル・コミック』 『シチリア人』 の作品を3つ制作します。
1666年2月サン=ジェルマン=アン=レー城からパリに戻った劇団は コルネイユ作の悲劇を『アティラ』が好評を得て、悲劇のレパートリーでも評価を高めることになります。1668年発表には1年ぶり待望の新作『アンフィトリオン 』 も大成功おを収めるなど、モリエール 劇団の成功は続きます。
その人気に陰りがではじめるのは1671年頃から、客足がやや減り始めますが、何より当時最も重要だったルイ14世の寵愛がジャン=バティスト・リュリ (バカラ製品のルリの名は彼に由来しています。)に移っていったためと考えられます。モリエールは当 初、リュリに対して庇護者のような立場にあり、彼と協力しておよそ10本のコメディ=バレエを制作し てきましたが、次第に頭角を現してきたリュリはさらにその野心を膨らませ、 王室音楽アカデミーの特権を手に入れた、結果、音楽オペラなどの上演権は彼が独占することとなり、パレ・ロワイヤルでの戯曲の公演においては6人の音楽家と12本のヴァイ オリンしか使用できないという制限を彼が設けたため、モリエールの活動を著しく制限することになります。

1673年2月17日、モリエールは『病は気から』の4回目の公演で体調不調を押して出演した舞台の直後、急遽担ぎ込まれた自宅にて大量の吐血をし亡くなります。妻のアルマンドは不在で、同建物に一時滞在中の修道女二人に看取られて亡くなります。
ただこの当時は、俳優になった瞬間にカトリック教会から破門を宣告され、教会からの異端扱いされていました。善良なカトリック教徒に戻るには、司祭の前で俳優業を棄てる旨を宣告しなければならなかったため、モリエールは修道女に秘蹟を受け ることを拒まれ、その望みを叶えずに息を引き取ります。

モリエールは最後の公演前、愛弟子のミシェル・バロンをそ ばに呼び寄せて、以下のように述懐したとい います。
私の生活に苦しみと喜びが混じり合っている間は、自分は幸福だ と考えてきた。だが今日は、苦痛に打ちのめされたような感じが する。満足や和らぎを期待できる時が来るとはどうしても思えな い。こうなってはもう諦める以外にない。悩みが悲しみが、息も つかず攻め立てて、私はこれ以上我慢できなくなった。人間とい うものは死ぬ前にどんなに苦しむことだろう。ともかく、私には よくわかっている。自分の死期が近いのだということが。 

前述のように、当時は俳優になった瞬間にカトリック教会から破門をされたように、新聞の俳優に対する社会的評価も低かったようで、当時でも作家が死んだときには、多少な りとも賞賛の念を込めた追悼記事を載せていたのが喜劇俳優でもあったモリエールに関しては、「ガゼ ット紙」は生存中も決して彼の名前を紙面に載せず、死亡時も一行の記 事を掲載しませんでした。 
モリエール評価が「偉大」となったのは19世紀に入ってからで、「古代からの純粋なフランス精神」の代弁者となり、モリエールを批判すること が、フランスを批判することと同義となり許されなってきます。その背後には他の3大戯曲作家のうちコルネイユの祖先がローマ人、ラシーヌの祖先がギリシャ人で唯一モリエールだけが純粋なフランス人と言えるということもあります。

そして冒頭でも書いたように、現在では、一般に「モリエールの言葉」と言えばフランス語を指し、イギリスのシェイクスピアに匹敵する作家と認識されています。

パリ、リシュリュー街のモリエールの銅像






2017年9月24日日曜日

アンティーク バカラ リキュールセット S.713・S.779 BACCARAT SERVICE A’ LIQUORE S.713・S.779


今年初頭に入手したアンティーク バカラのリキュールセットが良い雰囲気だったのに味をしめてまた同じ時代の別のタイプを入手してみました。

こちらも古い物独特の非常に良い雰囲気を持ったセットです。
小型カラフ:H190/225mm  81Ø mm  首下容量350ml
トレー: H27mm  332x215mm

グラス: H47.5mm  35ø  W50mm 満水容量25ml

同じタイプで丸型トレーに入ったセットが1907年のカタログで品番S.713。1916年のカタログでも非常に良く似た形でS779となります。
またその頃のバカラのポスターにこの角トレーの小型カラフ2本グラス12客セットが載っています。きっとこれも独自の品番があるはずですが、生憎カタログには掲載されていず判らないのでブログではS.713・S779としておきます。




1907年と1916年のカタログページ


20世紀初頭のバカラのポスター
これと全く同じのセットが左下に載っています。
この長方形のトレーの場合は、ボトル2本とグラス12客のセットだったようです。



新設:「映画とグラス」
映画の中のグラスのコーナーです。


さてリキュールグラスの使い方ですがリキュールは西欧では食後に出すもので、リキュールグラスは食事の始めから食卓にはセッティングしません。

食後にトレーに乗せてお酒とグラスを持ってきてサービスするのが普通です。

このシーンは映画「シェルブールの雨傘」(Les Parapluies de Cherbourg
フランスのシェルブール で小さな傘屋を営む母子家庭で、娘(カトリーヌ・ドヌーブ)のお金持ちの求婚者を自宅に招いての食事する場面。

食後にお母さんが立ち上がり、居間の脇に置いてあるリキュールセットの入った木箱を開けてグラスを取り出し、娘がお客様に出すというシークエンスです。


 



ジャック・ドゥミ監督のこの映画フランス映画としては異色のミュージカルですが、全体に色彩のとても美しい映画です。若くて初々しいカトリーヌ・ドヌーブも素敵です。

フランスではこのくらいのごく庶民的な家庭でも食卓はかなり豪華な感じで興味深いですね。他にもいろいろな映画のシーンの画像を沢山集めていますので「映画とグラス」今後もお楽しみに。


この場面に出ているような木箱入りのリキュールセット、今でもフランスのオークションハウスでは箱ごと売りに出ることが頻繁にあります。一度入手してみたいと思うのですが、梱包転送することを考えると気が重くなり、買えないでいます。。。今後の課題です。

2017年8月22日火曜日

アンティーク バカラ ブリュッセル (アルハンブラ) BACCARAT BRUXELLES (ALHAMBRA )

2021年11月14日更新

この通称アルハンブラと呼ばれているシリーズですが、ごく最近になって正式名はブリュッセルだと知りました。もちろんベルギーの首都のブリュッセルのことです。詳細は追って起筆します。

 



バカラのアルハンブラの名は言わずと知れたスペインのアンダルシア州グラナダ県グラナダ市南東の丘の上に建てられたムスリム建築様式の非常に美しい宮殿に因んでいますが、具象的な模様ではなく全体に模様を散りばめるイスラム様式のデコレーションはアールデコ期のバカラ製品のインスピレーションの源となっていますが、このアルハンブラは極めて良い例だと思います。



アルハンブラ宮殿遠景

アルハンブラは言わずと知れたユネスコの世界遺産、スペインのアンダルシア州グラナダ県グラナダ市南東の丘の上に建てられたムスリム建築様式の非常に美しい宮殿です。

城塞の性質も備えた宮殿(長さ740m 、幅 205 m)で、中に住宅、官庁、軍隊、厩舎、モスク、学校、浴場、墓地、庭園といった様々な施設を備えていました。

ヨーロッパにはプラハ城など「街の中の街」のようなお城が他にもありますが、アルハンブラは世界でも最も大きい城と言われるプラハ城よりさらに大きい宮殿です。ちなみに比較するとアルハンブラ長さ 740m 幅 205 mに対しプラハ城約570m、平均幅約130m。

このアルハンブラ宮殿の大部分はナスル朝の時代に建設されたのもで、スルタンの居所として用いられていました。アルハンブラ宮殿はムスリム建築様式で、当初から全体の形が計画されていたのではなく、異なる時代に建てられた様々な建築物の複合体で、時代により建築様式や形状などが異なるところも面白さの一つです。
具象的なデコレーションではなく全体に模様を散りばめるイスラム様式のデコレーションはアールデコ期のバカラ製品のインスピレーションの源となっていますが、このアルハンブラは極めて良い例だと思います。

音楽や文学にも取り上げられるだけあって極めて美しい建造物の数々で、このブロブページの写真を選ぶのにも困ってしまったほどでした。
ナスル朝一代目のモハメド1世

ナスル朝はイベリア半島最後のムスリム政権。ナスル朝一代目のモハメド1世はカスティリア王国の重税に対する民衆の不満を利用して、グラナダを首都としたナスル朝グラナダ王国を建国します。
モハメド1世と モハメド2世60年の歳月をかけ、水道を設置し、アルカサーバの拡張工事を行い、その後も歳月と共に建物や塔を建築していきます。


モハメド1世時代のアンダルシア地方の日常風景
http://www.teutonic.altervista.org/より



モハメド1世と2世が拡張したアルカサーバ

1319年のイスマイル1世統治下オジミン将軍率いる
グラナダ王国騎馬隊が圧勝したカスティリア王国との戦い。
キリスト教徒には「グラナダ ベガでの大惨事」として記憶されています。


1330年頃のイベリア半島地図

グラナダ王国は常にカスティリア王国だけでなく当時アンダルシア地方を占領していたモロッコ軍と幾度となく戦ったり平和条約を交わしたりを繰り返しますが、1333年王位についたユースフ1世とその息子のムハンマド5世の時代にアルハンブラ宮殿を大規模に拡張します。それはナスル朝の黄金時代でもありました。ユースフ一世時代、特に1344年からリコンキスタに興味の薄いカスティリア王国のアルフォンソ11世との間に10年間の平和条約を結び、それを利用して、文化の繁栄と建設物の充実に力を注ぎ、賢い政策を展開します。


ユースフ1世時代のハーレム
http://www.teutonic.altervista.org/より


アルハンブラ宮殿ディテール
ナスル朝の紋が入っています
Photo: ©SanchoPanzaXXI


ユースフ一世の時代は城廊では、マチューカの塔、コマーレスの塔、正義の門、スィエテ・スエーロスの門、宮殿ではコマレス宮を中心とする建物が造られました。ムハンマド5世の時代には、城廊では、唯一アラベスク模様の装飾があるぶどう酒の門、宮殿では特に有名なライオンの中庭を中心とする建物が造られました。ライオンの中庭は、長さ28メートル、幅16メートルで、庭を囲む4つの建物には124本の美しいレリーフ装飾の大理石円柱が立ち並んでいいます。中庭の東側にある諸王の間には、10人のアラブ人貴族が描かれています。

 ライオンの中庭
Photo©Jebulon


ライオンの中庭の回廊の天井
Photo©Jebulon


ライオンの中庭のライオンたち
Photo©Jebulon



ムハンマド5世没後、ナスル朝は約100年間存続しますが、新たな建造物はほとんど建てられませんでした。キリスト教徒のリコンキスタ運動の波を巧みに避けてイベリア半島で唯一存続したムスリム政権のグラナダ王国でしたが1469年スペインのフェルディナンド2世とイザベラ・ディ・カスティリアの婚姻でより強化されたキリスト教徒リコンキスタの前で、最後のムスリム政権は終わりを告げます。


1492年、グラナダが陥落するとアルハンブラ宮殿にも一部手が加わります。グラナダがキリスト教徒の手に渡った直後に、神聖ローマ帝国のカルロス5世(カール5世がこの地を避暑地として選び、カルロス5世宮殿を建設。当時イタリア留学していたペドロ・マチューカが、正方形の建物の中央に、円形の中庭を設けるという設計をし(現在も未完成)、スペインにおける純イタリア様式の成功傑作と称されている。


カルロス5世(カール5世宮殿ファサード
Photo©Rose Selavy


カルロス5世(カール5世宮殿内部
Photo©Ra-smit

カルロス5世(カール5世



こちらは有名なギター曲「アルハンブラの思い出」のリンク
1896年作曲。オリジナル・作曲者のFrancisco Tarrega の演奏です。
https://www.youtube.com/watch?v=3T9wRhq8SYw



アルハンブラ物語を書いたIrving Washington




2017年8月10日木曜日

アンティーク バカラ パリ  BACCARAT PARIS



ジルベールの同型に米粒状のカットないタイムレスなデザインです。
同じカットのロングステムヴァージョンもあり、そちらもパリと呼ぶ人が多いですが、ロングステムの本当のモデル名はマレンゴ(MARENGO)になります。

ある文献ではパリのカットだけでなくジルベール本体もジャン・リュースの作とするものもあるのですが、本当でしょうか?裏ずけが取れていないのでご存知の方かいましたらご教授ください。

*画像のデキャンタのストッパーはオリジナルの形状ではありません。








エピソード
普通は名前の由来を書きますがフランスの首都「パリ」については、日本の雑誌のほうがよほど詳しく有益な情報が出ていると思うので省略し、この項目ではこのグラスをデザインしたジャン・ルースについて少し書きたいと思います。

ジャン・リュース(Jean Luce)
ジャン・リュースは日本ではあまり知名度がありませんが、作品写真を多数拝借した1stdidsのサイト(https://www.1stdibs.com/creators/jean-luce/furniture/)をご覧いただければわかるように、彼の作品は死後50年以上経過した今、一流のファインアーティスト並みの値段で取引されている重要な作家です。


ジャン・リュース(JEAN LUCE 1895- 1964)は1895年パリ生まれの陶磁器ガラス器のデザイナー。ジャンは陶磁器店を営む父親ポール・リュースの元でテーブルウエアに親しみながら育ちます。16歳の時に初めてガリエラ・ミュージアムに作品を展示し、その後数々の作品を発表し続けます。

ジャン・リュースは弱冠18歳で1913年の・ペティ・パレで行われた重要なアートの展示会サロン・ドートンヌ(Salon d’automne)にも参加しています。

1912年サロン・ドトンヌ会場風景

ちなみにサロン・ドートンヌは1903年から始まったアート展示会でセザンヌ、ゴーギャン、マティス、ピカビア、ピカソなどの一流著名画家も参加しています。当時大変に保守的だと考えられていたフランスのサロン(フランス芸術家協会のサロン展及び国民美術協会サロン展など)への反抗があったと言われていて、現在でもパリが芸術の都といわれるのもサロン・ドートンヌ展があってのことだったととさえ言われていいます。
サロン・ドートンヌの主催元はサロン・ドートンヌ協会(Société du Salon d'automne)で現在も毎年秋にパリ市内にて開催。多くのサロンが衰退する中、現在も企業スポンサーを得て、単独での大会場開催で、個人アーティストの応募に応える数少ない国際サロンのひとつです。

ジャン・リュースが参加した1913年のSalon d’automneはキュビズムが主流だったと言われています。

1913年出展されたFresnaye Conquestの絵画



1937年サロン・ドートンヌポスター
©Georges Dufrénoy


さて、ジャン・リュースの話にもどりますと、ジャン・リュースは1923年、一家の店をグラン・パレにほど近いRue de la Boetieに移転しさらにそのプレステージを高め、アールデコをアールデコならしめた1925年の万博、ジュバリエがバカラ内で確固たる位置を確立した通称アールデコ博で、弱冠30歳で審査員を務めています。


ジャン・ルースが1925年の万博に出展したお皿

1931年には一家の店の経営を掌握し、1935年がヨーロッパ大陸とアメリカ大陸を結ぶ客船ではフランス最大のCompagnie Générale Transatlantiqueの豪華客船の一等の陶磁器、グラス類、銀器類の食器デザインををを引き受けるなどビジネスマンとしてもとても優秀なデザイナーだった様です。

Compagnie Générale Transatlantiqueの豪華客船で
シカゴの万博に行きましょう、という広告
collection of David Levine (http://www.travelbrochuregraphics.com)


Compagnie Générale TransatlantiqueのためにJean Luceがデザインしたコーヒーカップと灰皿



さらにジャン・ルースは1930年代このパリの様にバカラやサン・ルイなどの一流クリスタルメーカーともコラボレーションしています。
1937年にはUAM (Union des Artistes Modernes・モダンアーティスト・ユニオン)のメンバーに。
1949-50年頃パビリオン・デ・マルサンで開催された「Formes Utiles」展のガラス製食器棚セクションの責任者でもありました。


1950年代にはソラ・フランスのためにステンレス製プレートをデザインしています。サン・ルイのどれがルースの作品か調べてみましたがわかりませんでした。もしご存知の方がいましたらご教授ください。


また、パリのEcole des Arts Appliqués (応用芸術学校・現在のENSAAMA =L'École nationale supérieure des arts appliqués et des métiers d’art / 国立応用芸術工芸学校)にて教鞭をとり、セーブルで技術顧問も務めています。


以下はジャン・リュースのデザインの数々。フランスのデザイナーにしては線が太く、ちょっとイタリア的で男性的な大胆な造形ですが、それをうまくデコレーションと組み合わせています。まさしく時代のテーマに沿ったデザインと言えるでしょう。
(画像はhttps://www.1stdibs.com/creators/jean-luce/furniture/から拝借しています。)










 ジャン・リュース(Jean Luce)のサイン