2020年9月19日更新
アール・デコスタイルのシリーズ
現在は製造されていません。
タリランド / タレーランはアルクールと並んでバカラのフラットカットの代表的なモデル。タレーランにはこのショットグラスやハイボールグラスなどのベースなしのモデルとノーステムでベース付きのアールデコ的なモデルがあります。
1937年のリリースで1970年まで製造されていたと言われていますが1933年のカタログにも登場するのでもう少し古いはずです。また、タンブラー型は現在も製造が続いていますので1970年で製造中止になったのはノーステムの足付きのタイプでしょう。
光や角度によって虹色に見える大胆なフラットカットで飽きのこないタイムレスなデザインです。
1937年のリリースで1970年まで製造されていたと言われていますが1933年のカタログにも登場するのでもう少し古いはずです。また、タンブラー型は現在も製造が続いていますので1970年で製造中止になったのはノーステムの足付きのタイプでしょう。
光や角度によって虹色に見える大胆なフラットカットで飽きのこないタイムレスなデザインです。
大きなカットなのでクリスタルの肉厚は厚めですが飲み口の部分がスッと薄くなっていて、現物を持ってみるとなんとも言えない高級感があります。でもそのため小口に欠けのあるユーズド品も多いのですが。。。
名前の由来
Talleyrand バカラファンの間ではタリランドと呼ばれていますが、本当はタレーランという表記の方が正確です。
バカラの製品はアルクール、ローハンなど貴族の名家の名をとったもの、リシュリューなど政治家、作家音楽家といった文化人の名前を頂いたネーミングがが多いですが、タレーラン家はフランスでも有数の大貴族で重要な政治家も輩出しています。
そしてタレーラン家も名家ですが普通ターレランと言ったらこのシャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール (Charles- Maurice de Talleyrand-Périgord・1754年2月13日-1838年5月17日)のことを指すので、この項目もシャルル=モーリスに関しての記述にします。
のシャルル=モーリスはフランス革命(1804年)から7月王政(1830年 - 1848年)までの政治家で外交官。貴族出身でありながら革命後も、長期にわたってフランス政界に君臨します。現在でも、欧米では交渉の場で卓越したものはタレーラン的と形容されるほどです。
シャルル=モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール
先天性の足の奇形でびっこをひいていたため、その卓越した外交能力と合わせ「びっこの悪魔」という芳しくないあだ名も付けられていますが、非常に洗練された社交的な人物でもあったそうです。さらに大変な美食家で当時のヨーロッパきっての天才シェフのアントナン・カレームを 居城、ヴァランセ城に住み込ませ、外賓の接待に起用し洗練された「食卓外交」を行ったことでも知られています。
シャルル=モーリス・ド・タレーランの居城 1802 年にナポレオンの助言で購入したヴァランセ城 広大な敷地で当時の個人邸宅としては最も大きい家でした。後に亡命中のスペイン皇太子夫妻を滞在させます。
アントナン・カレーム はフランスのシェフ・パティシエ。「国王のシェフかつシェフの帝王」と呼ばれていた人物です。タレーランが活躍したウィーン会議の間もたびたび夕食会を主催 し、そこで出された料理は出席者の評判をさらい、カレームの名をヨーロッパ中に広げるきっかけとなったといいます。
「国王のシェフかつシェフの帝王」アントナン・カレーム
カレームにとってタレーランは、単にパトロンと言うにとどまらず、課題を課され結果を吟味する審判者としての役割も兼ねていたといいます。
ウィーン会議が終わるとカレームはイギリスの摂政皇太子(後のジョージ4世)の料理長としてロンドンに赴き、その後サンクトペテルブルクでロシア皇帝アレクサンドル1世、ウィーンでオーストリア帝国皇帝フランツ1世などに仕えた後、パリに戻って銀行家ジェームス・ロスチャイルド邸の料理長に就任しました。料理文化の普及にも努力し、多数の著作があります。1833年、ターレランよりも5年早く48歳の若さで没します。
アントナン・カレームの厨房とお菓子のレパートリーの一部
https://www.massaiemoderne.com/1932-pasta-congresso-vienna/より
さて、タレーランの話に戻り、タレーラン家はローマ帝国のカール大帝の末裔ペリゴール伯爵 の直系子孫を自称する 名門貴族の家柄 でシャルル=モーリス・ド・タレーランはターレラン侯爵の次男伯爵家の長男としてパリに生まれます。
神学を修めオータン司教だった革命前のブルボン王朝ルイ16世時代は三部会の第一身分(聖職者)議員に選出され、自身が司教でありながら教会財産の国有化という反カトリッ ク教会的な政策を推進します 。1790年に国民議会議長に選出されるとともに司教職を自ら辞しますが、その後それまでの反カトリック教会的行為でローマ教皇から破門もされています。
1972年に外交使節としてイギリスに派遣され、恐怖政治が始まるとアメリカに亡命。1796年に帰国し当時親しかったスタール夫人の推薦により3年間総裁政府の外務大臣となります。
アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール夫人
スイスの政治家・財政家ジャック・ネッケルの娘。幼い頃から哲学者や文学者の集うサロンに足を運び、彼らから、その才能ぶりを絶賛されます。1795年に発表した「小説論」はドイツの文豪ゲーテから絶賛されるほどのインテリ。
タレーランは革命後のフランス憲法の大半を執筆し制定に貢献します。
大半をタレーランが編集した「市民権のデクレーション」
(Déclaration des Droits de l'Homme et du Citoyen )
タレーランはナポレオン統領政府では外務大臣に就任。ナポレオンはタレーランの家柄に強く惹かれていた上、彼の卓越した外交能力を高く評価していましたが。同時に彼の気取った態度を嫌ってもいたといわれています。
ナポレオン・ボナパルテ
リュネヴィルの和約、アミアンの和約の成立に貢献、高く評価されますが、ヨーロッパ列強の勢力均衡を図ろうとする彼の考えと、ナポレオンのヨーロッパ支配の拡大 戦略とは相容れず、1807年に外相を辞任。
ナポレオンとタレーランは、互いの天才的な才能を認めあったといいますが、必ずしも良い関係ではなかったといいます。ただ互いに必要不可欠な存在だったと言って良いでしょう。
タレーランはジョセフィーヌと離婚したナポレオンが望んだオーストリア皇帝フランツ1世の娘マリー=ルイーズ(Maria Luisa d'Asburgo-Lorena) との結婚のお膳立てをしたのもターレランでした。ちなみにマリー=ルイーズは「ナポレオンは恐ろしい憎むべき男だ」と教えられ「ナポレオン」と名を付けた人形をいじめながら育ち、ナポレオンと結婚しなくてはならなくなったと聞かされた時には泣き続けたといいます。
タレーランは変節の政治家とし て嫌われることも少なくありませんでしたが、名外交官としてオーストリアの 外交の天才と称される メッテルニヒと並び称され、今も高い評価を得ています。
フランス領インド生まれ(ヨーロッパからインドに移住した家族に生まれ)でその美貌で有名でした。グランは彼女の初婚の夫の姓で本名はNoël Catherine Verlée 。タレーランと彼女は最初の夫との離婚後付き合っていましたがナポレオンに別れるか結婚するかどちらかを勧められ1802年二人はに正式に結婚します。
ナポレオン統治時代の1806年、領地としてイタリアのベネヴェントがあたえられます。とはいえタレーランはこの地に居住することも、彼の公国を実際に統治することもなかったそうです。ナポレオンが失脚後1815年ベネヴェントはもとのローマ教皇領に戻ります。
1814年にナポレオンが失脚した後、ターレランは臨時政府の代表、ルイ18世の即位後は再びフランスの外務大臣となり、ウィーン会議に出席。1815年にナポレオンの百日天下のあと、一時首相となりますが、過激王党派にフランス 革命期の政治活動を非難され失脚します。
1830年の7月革命ではルイ・フィリップ の即位に貢献し、この年から1834年までイギリス大使を勤め、1838年肺 壊疽により死亡します。
また、あまり知られていないかもしれませんが、メートル法は18世紀末のフランスにおいて世界で共通に使える統一された単位制度の確立を目指して出来たもので、フランス革命後の1790年3月に当時国民議会議員だったシャルル=モーリス・ド・タレーランの提案だったのです。
シャルル=モーリス・ド・タレーラン 語録として有名なものには次のようなものがあります。
快楽さえなければ、人生はきっと耐えうるものだろう。
誹謗中傷よりも酷いことがひとつある。それは真実だ。
言葉が人間に与えられたのは、考えていることを隠すためである。