2022年7月1日金曜日

アンティークバカラ マントノン BACCARAT MAINTENON  6186-6170


先月書いたこの項目、間違って消してしまったので再度アップロードです。


精巧なカットが施され上品でフェミニンな雰囲気のこのグラス、一般にマントノンと呼ばれています。

が、カタログ上にはマントノンという表記は見当たりません。カタログ上のシリーズ正式品番はフォルム6186-カット6170

アンティークのバカラ愛好者達がこのグラスを自然と太陽王ルイ14世の最愛の人、マントノン夫人の名で呼ぶようになったのだと思うと、ある意味ますます素敵です。


1903年のカタログ上で確認できるアールヌーボー期の意匠です。



1903年のカタログページ



サイズリスト 




名前の由来


マントノン侯爵夫人


冒頭にも書いたようにカタログ上のシリーズ正式品番はフォルム6186-カット6170になります。

一般にマントノンと呼ばれている丸みがあり上品で高級感があるけれど控えめなこのシリーズを見て、「バカラってなんてネーミングが上手いんだろう。」と感心していたのですが、いざセットで入手して古いカタログを調べてみたら、カタログ上にはマントノン MAINTENON という表記はなく、このグラスの優しい感じから、自然とマントノンと呼ばれるようになったのだろうと想像します。


とここまで読んで、マントノンって何?誰?と思う方もいると思います。

実は私も恥ずかしなからフランスとカナダ合作連続テレビドラマ「ヴェルサイユ」を観るまでは知りませんでした。(汗&笑)


連続テレビドラマ「ヴェルサイユ」はルイ14世を主人公としてヴェルサイユ宮殿の建設からその後の宮殿内で起こる様々な事件、人間模様、ラブストーリーなどを描くドラマで、ちょっとラブシーンが多すぎの感も。。でも当時のヴェルサイユ宮殿の人間模様をうまく絵ががれていたと思います。あまりテレビドラマを見ない私は特にテーブルセッティングの時代考証見たさで観ていました。ドラマ内ではルイ14世を取り囲む様々な愛人や女性の中で際立って穏やかで思慮深いマントノン侯爵夫人に好感を持った人は多かったと思います。


マントノン侯爵夫人はルイ14世の最後の恋人で、秘密結婚をした後は王は二度と愛人を作らなかったと言われています。



マントノン侯爵夫人ことフランソワーズ・ドービニェ 1635年生まれ。厳しいユグノー(プロテスタント)の教育を受けて育ちますがわずか12歳で母親を亡くし、伯父夫婦の家に預けられ、代母ヌイヤン伯爵夫 人シュザンヌ に連れていかれたパリで知識階級の人々と知り合うことになり、その中で知り合った25歳年上の詩人ポール・スカロンと1651年僅か16歳で結婚します。



フランソワーズの最初の夫、詩人ポール・スカロン

この肖像画を見ると少しギョッとしますが、妻フランソワーズには優しく

また知性の豊かな人だったのでしょう



極度のリウマチで体の不自由だったスカロンとの結婚生活は彼のなくなるまで9年間続き、その間に夫の社交サークルの女主人となり、文筆家や機知に富む知識人、ヴェルサイユ宮殿に出入りるすモンテスパン夫人、教養と美貌を備え持つニノン・ド・ランクロらと面識 を持つ機会を得ます。


1660年に夫のポール・スカロンが亡くなるとフランソワーズは再び困窮した状況に置かれますが、ルイ14世の愛人モンテスパン夫人にパリにとどまることを勧められ、モンテスパン夫人がルイ14世第一子が誕生すると王の庶子を養育する 召使の一人になります。 



子供たちに囲まれたフランソワーズ、後のマントノン夫人



フランソワーズは子どもを持ちませんでしたが元々母性の強い人柄で王の庶子たちを大きな愛情を持って育てます。庶子 で最も年長のルイーズ・フランソワーズが夭折したとき、実子に愛情を注がないモンテスパン夫人とは対照的にフランソワーズは悲嘆に暮れ、 その様子を見たルイ14世が「なんと愛情の深い人なのだろう。あんな人に愛されてみたい。」と言ったというエピソードが残っています。



ルイ14世の寵愛を受けたモンテスパン夫人


ルイ14世はフランソワーズの献身的な働き方を高く評価し、お給料を増やし、マントノンの領地と城を購入し王の庶子たちは、その後はマントノン城で暮らすようになり、そのためフランソワーズは1678年に所領にちなんでマントノン侯爵夫人の称号を与えられます。




マントノン



そのように王の優遇されても簡単に愛人になることはせず、まずは知性と友情で王の完全なる信頼を得ます。1670年代の後半から、王は余暇をいつもマント ノン夫人と過ごし、政治、信仰、経済を論じ合っていたといいます。 


1673年頃のルイ14



1680年、王がマントノン夫人をドフィヌ(王太子妃 マリー・ アンヌ・ド・バヴィエール )の第二女官長とした直後、毒物薬物事件に関与していたことで王の愛人のモンテスパン夫人が宮廷を去ることになり、王の正妻である王妃マリー・テレーズ・ドー トリッシュもモンテスパン夫人から受けた屈辱から解放されたと言ったといいます。


1683年王妃が急逝した後、1685年から1686年にかけての冬の日の深夜に、パリ大司教が司った私的な挙式にお いて、マントノン侯爵夫人ことフランソワーズはルイ14世と結婚します。ルイ1445歳、フランソワーズ48歳の時でした。

王族は国益のためにも他国の王室の子女と政略結婚するのが当たり前だった時代のこと。社会的階層の不釣合いのために、彼女は王と の結婚を公にし王妃となることはできず、貴賎結婚でした。 

結婚についての証明書は何も存在していませんが、歴史家たちは結婚が確かにあったことを容認し、王はその後二度と愛人を作らなかったと言われています。

 

ルイ14世の大臣達は、王が処理する用件の大半を前もってマントノン夫人と話し合っていた というほど周囲にも信頼され国政にも大きな影響を及ぼしたと言われています。


ルイ15世の寵愛を受けた美貌の才媛ポンパドール夫人もマントノン夫人に憧れていた


また自分自身の生い立ちを振り返ってか、良家出身の財産のない子女のため に聖ルイ王立学校を創設します。学校はリュエイユで開校し、その後ノワジーへ移ります。王は彼女の要請に応 じて、サン=ドニ修道院の基金を用いてサン=シール (現在のイヴリーヌ県サン=シール=レコール)を彼女に与えました。マントノン夫人は学校の規則を制定し、 あらゆる詳細な内容を吟味し、生徒たちに親しみやすく、母のような影響を与えたとも言われています。



聖ルイ王立学校



1715年のルイ14世の死を前にして、彼女はサン=シールへ引退しますが、 ルイ14世の弟オルレアン公フィリップ2 は彼女に多額の年金を与えて彼女に敬意を表します。


1719年のルイ14世の死の4年後になくなりますが、病中 彼女を訪問した、後にピョートル大帝と呼ばれるロシア皇帝ピョートル1世は「私は、フランスの持つあらゆる注目に値するものに会いにきたのです。」と言ったというエピソードが残っているほどマントノン夫人は王と国家へ多大な奉仕をしたと言われています。



ロシア皇帝ピョートル1