2020年9月23日水曜日

アンティーク バカラ ブルボン BACCARAT BOURBON


ブルボンBOURBON
1937年から1970年まで製造されていたそうです。 






タレーラン(タリランド)に似た大胆なフラットカットのグラスです。

タレーランとの違いは上部が開いていないこと。ベースが六角カットされているところです。飽きのこないモデルです。タレーラン同様あきのこないモデルです。希少という観点からだとタレーランよりは製造数は少ないようです。


名前の由来

お酒のバーボンも同じスペルですが、フランスでBOURBONと言ったらやはりブルボン王朝のブルボン家と考えるのが普通でしょう。

ブルボン家 家紋


「太陽王」の異名を持つルイ14世 (1638-1715)

ブルボン家(: Maison de Bourbon)は、ヨーロッパの王家で、主にかつてのフランス王家、また現在のスペイン王家であり、また現在の 両シチリア王国など現在のイタリアの一部を治めていた家系もあります。

ブルボン家の起源は10世紀頃フランス中心部クレルモン付近のの最初の領地にあったブルボン城にちなんでブルボン家と名付けた、と言いますが。家の名前より先にお城があったというのはちょっと不思議な気がします。

16世紀ごろからフランス王としてフランスを統治しただけでなく、1589年から1791年までナバラ王国(元スペインの一部)を、スペイン王国の王としては1700年から1808年、1813年から1868年、1874年から1931年、1975年から現在まで。またイタリア統一前のイタリアの一部、主にナポリやシチリアのようにもなります。ナポリ王国の王家としては1734年から1799年、1799年から1806 1815年、1816 年。両シチリア王国1816年から1861年、エトルリア王国も1801年から1807年の短い間、パルマ公国では1731年から1735年、1748年から1802年、1847年から1859年。ルッカ公国では1815年から1847年。また現在のルクセンブルグも1975年から現在までル クセンブルク大公 家も男系ではブルボン家の後裔。

スペイン王フェリペ5世(1683-1746)

イタリアでは特にシチリアとナポリの統治が長く、そのおかげでシチリアとナポリではフランス風の美味しいクロワッサンが今でも食せます。クロワッサンはコルネットまたはブリオッシュと呼ばれイタリアでも典型的な朝食ですが、北イタリアのキフリから変形したと言われるクロワッサンとナポリのそれはは少し違います。

政略結婚なども多くイタリアのサボイア家やメディチ家のからも婚姻関係があり、当時まで手づかみで食事をしていたフランスにカトラリーを始めて輸出したのはトスカーナ公国から嫁いだカテリーナ・ディ・メディチだったと、イタリア人が今でも自慢します。

両シチリア王国 のフェルディナンド1世1751-1825

ブルボン王朝下の時代の両シチリア王国の紋章


途絶えてしまったブルボン家の本流では近親者 は王、王妃といった立場でもルイ2世の妹ジャンヌ、シェルル6世など突如発狂する精神障害を持つものが何人もいて遺伝性疾患と考えられています。 

ブルボン家関連の有名人は多々いますが最も有名でフランス国家に貢献したのは「太陽王」の異名を持つルイ14世、スペインではフェリペ5世とカルロス3世、両シチリア王国のフェルディナンド1世などが有名です。


スペイン 王カルロス3世(1716-1788)

女性好きで政治能力は今ひとつだったルイ15世に関してはこちらをご覧ください。


メディチ家からは フランスのアンリ二世の妻となったカテリーナ・デ・メディチ(仏語カトリーヌ・ド・メディシス)、フランスのアンリ四世の妻となったマリア・デ・メディチや アンリ四世と結婚したマリー・ド・メディシスに関してはこちらをご覧ください。



2020年5月2日土曜日

アンティーク バカラ 壁掛け花挿し 95 BACCARAT PORTE-BOUQUETS 95


とても珍しい品物を入手したので、新しい項目として掲載しましょう。
Porte-bouquets 、壁掛け式のお花挿しです。まだ自動車が馬車の発展形だった時代にはこんな風流な自動車用のクリスタルの花瓶が車内装飾用に使われていました。
バカラのクリスタルメーカーだけでなくシトロエンなどの車メーカーでも販売していたようです。

2個中1個はまだシール付き

実はだいぶ以前から大お得意様に見つかったらと頼まれていたものです。
現代ならインテリア演出の小道具として楽しめそうです。
私もひとつくらい自分用に欲しいかも、と思いましたが西欧の大ぶりな家よりも、日本家屋に似合いそうです。

随分探したのですが何年間も売りに出るのを見たことすらなく、3月上旬にフランスであったクラッシックカー、ヴィンテージカー関連のオークションで初めて見つけました。丁度新型コロナのフランスのロックダウンと重なり、約2ヶ月かかってようやく届きました。今回4ロットで合計十数個入手しましたが、 そのままお探しだった方にお渡しすることになっています。


十数個の中でカタログで確認できるバカラ製品はこれのみ。同じものが二つありましたが、一つにはシールもついています。カタログで確認できると言っても同時期のバカラのカタログではこの種のアイテムは見つからないのですが、1900年代初期の、当時バカラ製品のイタリアの輸入代理店をしていたリチャード・ジノリのカタログに掲載されいます。







1900年代初期の、リチャード・ジノリのカタログ
リチャード・ジノリは当時バカラ製品のイタリアの輸入代理店をしていました。


シトロエンの自動車用花挿しのカタログ







「映画とグラス」・「薔薇のスタビスキー」(Stavisky, 1974年)

1930年初頭が時代設定のこの映画の中で自動車用花挿しが一瞬だけ映っているのを見つけました。

元々はドキュメンタリー出身で、「ヒロシマ・モナムール」「去年マリエンバードで」などの前衛映画でも有名なアラン・レネ監督(1922−2014)の映画「薔薇のスタビスキー」(Stavisky , 1974年)の中です。映画の中での時代設定は1930年初頭。

映画「薔薇のスタビスキー」に登場する自動車用花挿し
大輪の芍薬のような花が首だけ出るように活けてあります。



花挿しの使われている自動車はこんな感じ。素敵な時代でしたね。

2020年4月1日水曜日

アンティークバカラ マレンゴ BACCARAT MARENGO




マレンゴ・シリーズ写真
現物を入手したわけではないのですが、綺麗な写真がアーカイブから見つかったので項目を足すことにします。この写真どこから入手したか記憶にないのですがどなたかの版権を侵害しているようでしたら、即刻引き下げますのでお知らせください。
Marengoは同カットのショートステムのモデルはパリ、ジャンリュースのデザインです。

マレンゴの掲載されたカタログページ上記の写真とカップの形状がやや異なります。
時期により複数の形状があるのはローハンやゴルフジュアンなども同様です。

名前の由来
このモデルの名前はマレンゴの戦いのあったマレンゴに由来しているのか、それともナポレオンの愛馬マレンゴに由来しているのか不明です。愛馬マレンゴは有名なので多分馬にちなんでいるとは思いますが、いずれにしても馬の名前はマレンゴの戦いにちなんでいるので両方書きましょう。


ジャック=ルイ・ダヴィッドによる「アルプス越えのナポレオン」(1801年作)
描かれている馬はマレンゴですが、悪路を走破する必要から実際はラバに乗っていたとされています。



まずはマレンゴの戦い(Bataille de Marengo)から書きますと、ナポレ オンの第二次イタリ ア遠征にて、18006 1314日に行われたオーストリア 軍との 戦闘。現在のイタリア北部 ピエモンテ州アレッサンドリ ア近郊の町マレンゴとその周 辺で行われました。

 マレンゴの戦いの様子。


ナポレオンが指揮を誤っ たためフランス軍の辛 勝であったといわれていますが、ナポレオンは 大勝利と喧伝し、その名を愛 馬に与えたともいいます。 

バカラ のアール・デコのモデルには歴史的な戦のあった場所にちなんでいるものが、、私の知っている限りで他に6つあります。Charmes, Lodi, Magenta, Champaubert, Marignaneそれから Touraineというモデルも Bataille de Nouyにちなんでいるのです。もしこのマレンゴも入れると7つ。


1933年のカタログの「戦シリーズ」のページ全てのモデル名が歴史的な戦いにちなんでつけられています。
もちろん全てフランス軍が勝ったものばかり。ここにはマレンゴは掲載されていません。

あまり戦争の話は好きでないので、マレンゴの戦いの詳細は割愛し、それにまつわるエピソードを紹介します。
マレンゴの戦いの夜、戦場の混乱の中で食料が届かない中、料理人があ りあわせの材料で工夫し、チキンのトマト煮にエビと玉子を添えた料理 をナポレオンに提供し、これがフランス料理の「 鶏のマレンゴ風 」の 起源。以来ナポレオンは縁起担ぎの意味でしばしばこの「鶏のマ レンゴ風」を食したといわれています。ただし当時トマトが手に入ったかは疑 わしく、この話は俗説に過ぎないと言う人もいます。ナポレオンの勝利を記念し てレストランの料理人が創作したのであろうというのが、より確からし い起源 だそうです。


鶏のマレンゴ風 」写真は以下のLa Cucina Italiana のサイトから拝借しています。
イタリア語ですがレシピも掲載されています。

https://www.lacucinaitaliana.it/ricetta/secondi/pollo-alla-marengo/




ローマを舞台にした悲劇オペラ、プッチーニ の『 トスカ 』は19001月初演。
1幕でボナパルトがマレンゴの 戦いに敗れたという誤報がもたらされ、第2幕でボナパルトが勝ったと いう正しい知らせが届きます。 

画像はトスカの第1幕でナポレオンがマレンゴの戦いで敗れたという誤報を信じて少年合唱団と歌う場面。
イタリアヴェローナのアレーナでの上演で す。
https://www.youtube.com/watch?v=jLGkXg3j49


1899年に発行されたピアノ楽譜の初版の表紙

2020年2月2日日曜日

アンティーク バカラ ナイフレスト BACCARAT PORTE-COUTEAUX S492 / S535





1916年のカタログのナイフレストページの筆頭に掲載されているS.535 

1907年のカタログだとほぼ同じ品で S492という品番で掲載されています。

正確に描写すると1907年の S492になるのですが、ぱっと見1916年のS.535 のような感じという印象です。

プレス成形ですが型でのBACCARATマークはありませんが、いくつかは紙のシールが貼られていました。


特に名前(品番)に関する記述はないので、モデルの写真とデータだけの紹介だけになります。
アンティーク バカラ ナイフレストS.535 / S492
長さ:81mm  最大径:40mm
重量:約135g










2020年1月17日金曜日

アンティーク バカラ レカミエ BACCARAT RECAMIER


写真の金彩入りがレカミエ、金彩なしがセビーヌ(セヴィニェ)
同形状同エッチングでもモデルで金彩ありとなしでモデル名が異なります。

こちらは珍しいビールセット。ブログには前からセビーヌ(セヴィニェ)として掲載していましたが、金彩入りなので正確にはレカミエになります。
非常に珍しいビールのサービス用のセットです。
クリスタルのお盆に細長い円錐台形のピッチャーとシンプルでスリムなシェイプのグラスのセットで、セビーヌ独特の控えめなエッチングと縁に金彩が施されていて、あまり金彩好きでない私まで、なんともエレガントとうっとりしてしまいます。


1907年のカタログのセビーヌのビールセットのピッチャーは上に幾何学パターンにエッチングが入り、セビーヌのエッチングが下部に施されていますが、1916年のカタログではその上下の模様の位置が逆転しますので、この品の様にセビーヌエッチングが上にありバカラマークのないこの品は1910-20年頃の製品と推定します。


ビールグラス:直径6.25ø H=12cm  満水容量:300ml
ビールセット ピッチャー:最大直径11.6ø H=24cm W=15cm  容量:1300ml (上部エッチング上面までで)
アンティークバカラ セビーヌ ビールセット トレー:最大直径30ø H=2.5cm


1907年カタログ掲載のビール サービス セット

1916年カタログ掲載の単品のピッチャ―とスリムなグラス


名前の由来
フランスでレカミエといえば当然のことながらレカミエ夫人ことジュリエット・レカミエ。
レカミエ夫人
ジュリエット・レカミエ(通称Juliette Récamier,   : Jeanne-Françoise Julie Adélaïde Bernard Récamier, 1777 - 1849)は世界の歴史の中でも、最も美しい女性と言われ、19世紀フラ ンスの文学・政治サロンの花形となった女  です。
特に皇帝になったナポレオンに、宮廷名誉夫人(というと聞こえが良いですが正式な愛人いわゆる公妾)になるよう4回申し込まれても袖にし続けたことでつとに有名。
強く美しい目をもった,聡明で教養の高い美しい女性で、髪型は当時としては珍しいショートカット、ギリシャ風の衣装ヒマティオンを好み、肖像画では皆ヒマティオンをまとっています。性格は非常に信念が強いだけでなく忍耐強く、頑固だったと言われています。
ジュリエット・レカミエは1777 年リヨンで公証人の娘として生まれ、1793年に16歳で26歳年上の裕福なパリの銀行家ジャック=ローズ・レカミエ と結婚。当時からジャックは事実上ジュリエットの実の父で、彼女を自分の 正統な相続人とするために結婚したのではないかと言われていました。 2人の間に夫婦らしい関係はなかったと言います。
1797年頃から、つまり20歳頃から社交界にデビューし一躍パリ社交界で注目され、間も無く自宅でインテリの集まるサロンをオーガナイズするようになります。
フランス語版のウィキぺディアによると職業はSaloniereとあり訳すると「サロンを開く人」ということになります。サロンと言ってもおそらく日本にずっとお住まいの方にはピンとこないかも知れませんが、自宅に知識人を招いて、意見や情報交換をする場として西欧の文化発展には極めて重要な役割を果たしていました。サロンによりテーマは色々で政治サロンもあれば文学サロンもありますが、サロンの特徴は所謂ただのパーティーやディナーではなく意見交換が極めて大きな要素になり、重要人物を招いてのサロンが開ける人脈と内容があれば社会の文化、政治面でその国の動向に大きく影響を与えることも可能でした。
フランス革命後の1799年から執政政府期 (1799 - 1804)には彼女が開いたサロンには、元王党派を含む 多くの文人や政治家が集まります。ジャン =バティスト・ベルナドット(のちの  ウェーデン王カール14世ヨハン)やジャ ン・ヴィクトル・マリー・モロー もい たといいます。この頃からスタール夫人、シャトーブリアン、 バンジャマン・コンスタンと親交を結びます。 特にシャトーブリアンとは生涯深い友情で結ばれ、シャトーブリアンは晩年の夫人のサロンにも通い続けます。

アンヌ・ルイーズ・ジェルメーヌ・ド・スタール
フランス批評家小説家。フランスにおける初期のロマン派作家として政治思想、文芸評論などを行いました。レカミエ夫人と反皇帝ナポレオンという立ち位置を共有します。


アンリ=バンジャマン・コンスタン・ド・ルベック
スイス出身のフランス小説家思想家政治家心理主義小説の先駆けとして知られる。長年スタール夫人の愛人だったのですが後年レカミエ夫人に熱心にアプローチします。

1804年に、ナポレオンが皇帝になったとき、スタール夫人とともにレカミエ夫人反対します。

皇帝になったナ ポレオンは、かねてから自分の弟が熱を上げていたレカミエ夫人を愛人にするために、彼女への贈り 物をしますが、この肖像画が ジャック=ルイ・ダヴィッド に依頼制作した肖像画『レカミエ 夫人』。
レカミエ夫人本人には気に入られず未完成に終わってしまったそうです。

ナポレオンの再三にわたる申し込みを断わり続けたレカミエ夫人は、帝政時代のナポレオンと対立し、1811年にパリを追放されたため、 故郷リヨンやローマ、ナポリに滞在。ローマ滞在中は当時きっての彫刻家のアントニオ・カノーヴァと知り合い、彼制作のレカミエ夫人の半身像が残されています。
アントニオ・カノーヴァ作のレカミエ夫人胸像

レカミエ夫人を描いたデッサン。作者不明ですが綺麗なので。。。
 ナポレオンの工作によって、夫のジャックの資産が無くなり始めたため、1815 年、スイスに隠遁するスタール夫人を訪ね、レカミエ夫人は夫との離婚を画策したと言います。若い頃サロンの常連でレカミエ夫人に熱烈な好意を持っていたプロ イセン王子アウグスト・フォン・プロイセンとの結婚を考えていたといわ れています。しかし夫は 離婚に応じず、やがて全財産を失った彼女は1819年にパリのオー・ボワ修道院(パリ7区レカミエ通り界隈)へ引きこもります。
修道院に引きこもったと言っても修道女になったわけではなく、このパリのオー・ボワ修道院には上層階をブジョワの裕福層にアパートを貸していたのです。レカミエ夫人は初め小さなアパートを借りますが、またしてもサロンが開けるよう広めのアパートに移ります。
レカミエ夫人が晩年を過ごしたパリのオー・ボワ修道院

ここへも頻繁にに通ってきたのが当時最な重要な文化人と評価されていたシャトーブリアンですが、他ににも19世紀フランスの文芸評論家・小説家・詩人。ロマン主義を代表する作家の一人で、19世紀のフランスを代表する小説家オノレ・ド・バルザックや近代批評の父とも言われるシャルル=オーギュスタン・サント=ブーヴ、哲学者、政治家ヴィクトル・クザンた俳優のタルマなどがレカミエ夫人のサロンに集まったといいます。
シャトーブリアン   
オー・ボワ修道院のレカミエ夫人のサロン風景(1849) 
左側の壁にシャトーブリアンの肖像画らしきものが見えますが、本当に常連客の肖像画があったのでしょうか?特見ると暖炉の向こう側の小さい絵はスタール夫人のような。。。

1849年にパリ市内でコレラが流行した時に、オー・ボワ修道院を後にし姪夫婦の住む国立図書館に引っ越しますが、同年病に伏せ息を引き取ります。




年を重ね、病がちにな ってもレカミエ夫人はその魅力を失わな かったといわれれています。 きっと内面から滲み出てくる美しさの方が強かったのでしょう。