2017年1月1日日曜日

バカラ ドゥ・ツアー BACCARAT DU TSAR


現物を入手できたことはないので製品の写真は全てバカラのプレス提供です。
Photo:© Laurent Parrault  Courtesy: Baccarat 

« du Tsar »(「皇帝」の意)と呼ばれるこのグラスは1909年にロシアの皇帝ニコライ二世(1868-1928)のために制作されました。
フランスの国家最優秀職人章を得た職人によってのみ作られ、世界中の貴族に愛され続け、今日も製造が継続されている製品です。

Photo:© Laurent Parrault Courtesy: Baccarat 
   
ニコライ二世はロマノフ朝第14代にしてロシア最後の皇帝。

バカラは革命機運の高まる真っ只中1909年にこのdu Tsarを納品しています。(デザイン、発注は1900年前半とのこと)
イギリス育ちの皇后アレクサンドラ・フョードロヴナが成婚当時、英国社交界に比べてロシア社交界は贅沢三昧で背徳的とみなして嫌っていた、というエピソードも理解できます。贅沢も状況により良し悪しですね。

ニコライ二世は凡庸な皇帝とイメージされることが多く、嫉妬から有能な人物を遠ざけ従順な臣下の取り巻きのみを重用するタイプで統治者には向かなかったと批評される反面、プライベートでは優しくて誠実な家庭人であったとも言われています。
外交においても、フランスを出し抜いてドイツ皇帝と締結した密約を最終的には破棄するなど、権謀術数が渦巻く当時のヨーロッパにしてはめずらしく、同盟国に対しては忠実でした。

 Photo:© Laurent Parrault Courtesy: Baccarat 

Photo:© Laurent Parrault Courtesy: Baccarat 




ロシア文学やロシア映画は大好きなのですが、やはり南欧からはロシアは遠い国。十分な知識がないので、以下日本語版ウィキペディアを中心に参考にし、このモデルの発注主のニコライ二世の一生を手短にまとめてみました。
。。。といっても長いのでお時間のあるときにどうぞ。



ニコライ二世は1868年5月、アレクサンドル皇太子とその妃マリア・フョードロヴナの間の長男としてロシア帝国首都サンクトペテルブルクに生まれます。
子供時代は女の子っぽい男の子だったという記述が残っていて、それを心配した父親が10歳から保守的なダニロビッチ将軍を家庭教師につけ皇帝にふさわしい教養と語学を、17歳からは高名な法学者でロシア正教聖務会院から民政法、元大蔵大臣ニコライ・ブンゲから政治経済学、メール将軍とドラゴミロフ将軍から軍事学を学びます。



22歳の時に両親の勧めで1890年から10か月間世界各地、英領インド。正論。オランダ領東インド、フランス領インドシナ、シャム(現タイ)、英領香港、清そして最後に日本を訪問します。

長崎に上陸して東へ、東京まで向かう予定でしたが、大津近くで巡査にサーベルで斬りかかられる事件、通称「大津事件」に遭遇し、東京訪問を中止します。
ニコライは来日間もない頃には、長崎の印象について日記の中で「長崎の家屋と街路は素晴らしく気持ちのいい印象を与えてくれる。掃除が行き届いており、小ざっぱりとしていて彼らの家の中に入るのは楽しい。日本人は男も女も親切で愛想がよく、中国人とは正反対だ。」という感想を書きましたが、この事件に遭遇して以降、彼は日本人に嫌悪感を持つようになったといいます。


帰国後、ニコライは公務に励むようになり、1891年11月には飢饉救済特別対策委員委員長、1893年2月にはシベリア鉄道委員会の議長に就任。さらに初めは父の政策を受け継いで蔵相セルゲイ・ヴィッテを重用した。ヴィッテは1892年に運輸大臣、翌年には蔵相に就任しており、1903年まで現職としてロシア経済の近代化に務めた。なかでも鉄道網の拡大には熱心で、シベリア鉄道における彼の功績は大きいものでした。

1894年初秋に父帝アレクサンドル三世が病に倒れ、10月中旬になると寝たきりになり、ニコライ皇太子が皇帝の公務を代行するようになり、11月1日に崩御し父帝はを継いで26歳の若さでロシア皇帝に即位することになります。

父帝アレクサンドル三世の大葬のー週間後にかねからの婚約者アリックス(ロシア正教への改宗以降アレクサンドラ・フョードロヴナ)と結婚します。
アリックスドイツ帝国領邦ヘッセン大公国の大公ルートヴィヒ四世とその妃アリスの間の末娘にあたります。


王女時代のアリックス。(1872-1918)ヘッセン大公ルートヴィヒ4世とイギリスのヴィクトリア女王の次女アリスの間の四女。母が35歳で死去した後、6歳から12歳まで祖母にあたるイギリスのヴィクトリア女王に育てられたため、ドイツ人というよりメンタリティーはイギリス人であったと言われています。1884年サンクトペテルブルクで行われた姉エリーザベトとアレクサンドル3世の弟セルゲイ大公の結婚式で、4歳年上の皇太子だったニコライと出会い、付き合い、愛し合うようになります。当時の皇族として珍しい自由恋愛だったのです。成婚にあたりロシア正教に改宗し、以降名前もアレクサンドラ・フョードロヴナと改めます。

婚約公式写真

ニコライ2世は1896年、モスクワクレムリンに所在するウスペンスキー大聖堂で皇后とともに戴冠式を行います。


ニコライ二世戴冠式

ニコライ2世は、ヨーロッパにおいては友好政策をとり、1891年フランスと結んだ協力関係を、1894年には露仏同盟として発展させるとともに、オーストリア=ハンガリー帝国フランツ・ヨーゼフ1世や従兄のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世とも友好関係を保ち、万国平和会議の開催を自ら提唱して1899年の会議ではハーグ陸戦条約の締結に成功しています。

一方、極東では日清戦争後力を強めていた日本との緊張関係が続き1904年2月9日、日本が宣戦布告なしで旅順のロシア艦隊に攻撃を加えたことで日露戦争が開戦し、翌年9月5日には日露講和条約(ポーツマス条約)が成立。戦争賠償金を払わないなどの譲歩は得たものの、日露戦争はロシア側の敗北という形で終結します。(戦争に関しては視点により様々な語り方ができてしまうのでこのブログでは割愛します。)

日本はこの戦争の勝利でロシア帝国の南下を抑えることに成功し、加えて戦後に日露協約が成立したことで日露関係は急速に改善し、革命によりロシア帝国が崩壊するまでその信頼関係は維持されます。

ロシア本国では日露戦争中の1905年1月9日、莫大な戦費や戦役に苦しんだ民衆が皇帝への嘆願書を携えてサンクトペテルブルク冬宮殿前広場に近づくと、兵士は丸腰の10万の群衆に発砲し、2,000 - 3,000人の死者と1,000 - 2,000人の負傷者を出した「血の日曜日事件」が起こり、これにより皇帝が民衆に対して友好的であるという印象が崩れ去り、国民統合の象徴としての存在感を失うことになります。

ドストエフスキーはモスクワの貧民救済病院の医師を父に持ち、ロシアで初めて貧しい人々も文学で描いた小説家とも言われていますが、小説を読むと国がこのような状態になる数十年前から農奴の貧困は言うまでもなく。中流や中産階級の経済的没落がかなり進んていたことがよくわかります。(この部分kajorica加筆)
国家評議会のニコライ二世 1901年5月27日

1905年8月、ニコライ2世は「皇帝を輔弼する」議会創設ブルイギン宣言を発します。これは信教の自由、ポーランド人ポーランド語使用、農民の弁済額の減額を認めたものでしたが、この程度の譲歩では秩序回復は期待できないことから、皇帝の諮問に応じるドゥーマ(議会)の創設に応ます。が、ドゥーマの権限があまりに小さいこと、また、選挙権に制限が加えられていることが明らかになると、騒乱はさらに激化し10月にはゼネストにまで発展。地方議会ゼムストヴォの要求(基本的な民権の承認、集会の自由、祭儀の自由、政党結成の許可、国会開設、普通選挙に向けた選挙権の拡大)に沿った内容、十月宣言がニコライ2世に提出されました。

インテリや中産階級も多く参加した1907年頃の市民デモの様子

ニコライ2世は3日かけて議論し、虐殺を避けたい皇帝の意志と他の手段を講じるには軍隊が力不足という現状から、ついに1905年10月30日に宣言に署名(十月詔書)。宣言が発布されると、ロシアの主要都市では宣言支持の自発的なデモが起こった。ニコライ2世は直前に皇帝専制権が残存する憲法(「基本法」)を発布し、国会を開催したものの、あまりに自由主義的であるとしてただちに解散。首相に ピョートル・ストルイピン は
1906年と1910年の法律で、農奴の身分を完全に廃止して個人農を推進するなどの近代化を進めますが、後に、その強い主導力に不快感をもった皇帝と対立してしまいます。

ニコライ2世は、1906年1907年の国会を「不服従」の理由で会期中に解散させ、反ユダヤ主義の宣伝とテロ活動を盛んに行なっていた極右団体「ロシア人同盟」を支援。3度目の国会では選挙法を改正して投票資格に大幅な制限を加え、貴族ばかりが当選する「貴族のドゥーマ」となってしまいます。
ドゥーマと呼ばれる帝政期の議会

1914年6月、サラエヴォ事件が起き、7月28日にオーストリア=ハンガリーがセルビアに宣戦を布告すると、ロシア軍部は戦争準備を主張し皇帝へ圧力を掛けます。ニコライ2世とドイツ皇帝ヴィルヘルム2世との間の電報交渉は決裂し、彼は第一次世界大戦拡大の要因の一つといわれるロシア軍総動員令を7月31日に布告して、汎スラヴ主義を掲げて連合国として参戦、ドイツとの戦端を開きますが、タンネンベルクの戦いでは壊滅的な敗北を経験することになります。

さらに1915年春には、先進的な近代機器を擁するドイツに対して相次ぐ大敗を喫し、同年夏には大退却を余儀なくされます。親征のため皇帝不在の首都ペトログラード(ペテルブルク)では、ニコライ2世から後を託されたアレクサンドラ皇后とラスプーチンが政府を主導していたが、失政が目立ち皇族の権威はさらに失墜することになります。
ロマノフ家に対する批判的機運が高まったことから、保守派は帝政を救おうとしてニコライ2世の譲位を画策した。それでも皇帝の孤立はさらに強まります。

1917年1月には、改善しない戦況と物資不足に苦しんだ民衆が蜂起し、軍隊の一部も反乱に合流してロシア全土が大混乱に陥ります。前近代的な社会体制からくる矛盾をついに克服できなかった帝政ロシアにとって、近代的な総力戦を継続することは既に限界に達し、
こうした状況下、二月革命が起こり、さらに3月には首都ペトログラードでも暴動が起こると、ニコライ2世は首都の司令官に断乎たる手段をとるよう命じた。秩序回復のために大本営から首都へ軍が差し向けられたものの、内閣は辞職し、軍に支持されたドゥーマは皇帝に退位と譲位を要求します。1917年3月15日、ニコライ2世は、最終的にはほとんどすべての司令官の賛成によってプスコフで退位させられることになります。

この時ニコライ2世は、本来後継者として予定されていた皇太子アレクセイではなく、弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に皇位を譲ろうとしますがミハイル大公は即位を拒否したため300年続いたロマノフ朝は幕を閉じ、ロマノフ家の人々は一市民になります。ユリウス暦3月7日には臨時政府によって自由を剥奪され、ツァールスコエ・セローに監禁されます。英国君主とも血縁関係が強い元ロシア皇帝一家を同盟国でもあるイギリスに亡命させる計画もありましたが、ソヴィエトを中心として反対し、同年8月妻や5人の子供とともにシベリア西部のトボリスクに流され、1917年11月7日十月革命がおこってケレンスキー政権が倒されると、一家はウラル地方エカテリンブルクへ移され、イパチェフ館に監禁されます。
イパチェフ館の警備兵を務めたアナトーリ・ヤキモフは当時のニコライ2世の様子について後年に「皇帝はもはや若さを失い、髭も白いものが目立ち始めた。私は彼が兵隊シャツを着て、腰に将校ベルトを締めているのを見た。シャツもズボンも同じカーキ色で、長靴は擦り切れていた。眼は優しく、本当に穏やかな表情をしていた。私は彼が親切で、単純素直で、気の置けない人柄だと思った。私に話しかけようとしているように思える時もあった。本当に、私達に話しかけたがっているようだった。」と書き記しています。

しかし、チェコ軍団の決起によって白軍がエカテリンブルクに近づくと、ソヴィエト権力は元皇帝が白軍により奪回されることを恐れ、1918年7月17日午前2時33分、ウラジーミル・レーニンのロマノフ一族全員の殺害命令を受けた元軍医でチェーカー次席のユダヤ人ヤコフ・ユロフスキー率いる、ロシア帝政下で抑圧され続けた少数民族のユダヤ人・ハンガリー人ラトビア人で構成された処刑隊により元皇帝一家7人、専属医アレクサンドラの女中、一家の料理人、従僕の合わせて11人をイパチェフ館の地下で銃殺した。これで元皇帝夫婦ニコライ2世とアレクサンドラの血筋は途絶えることになります。

1917年監禁中のニコライ二世と長男のアレクセイ
唯一の男子アレクセイは当時はまだ難病の一つであった血友病でした。