2017年8月22日火曜日

アンティーク バカラ ブリュッセル (アルハンブラ) BACCARAT BRUXELLES (ALHAMBRA )

2021年11月14日更新

この通称アルハンブラと呼ばれているシリーズですが、ごく最近になって正式名はブリュッセルだと知りました。もちろんベルギーの首都のブリュッセルのことです。詳細は追って起筆します。

 



バカラのアルハンブラの名は言わずと知れたスペインのアンダルシア州グラナダ県グラナダ市南東の丘の上に建てられたムスリム建築様式の非常に美しい宮殿に因んでいますが、具象的な模様ではなく全体に模様を散りばめるイスラム様式のデコレーションはアールデコ期のバカラ製品のインスピレーションの源となっていますが、このアルハンブラは極めて良い例だと思います。



アルハンブラ宮殿遠景

アルハンブラは言わずと知れたユネスコの世界遺産、スペインのアンダルシア州グラナダ県グラナダ市南東の丘の上に建てられたムスリム建築様式の非常に美しい宮殿です。

城塞の性質も備えた宮殿(長さ740m 、幅 205 m)で、中に住宅、官庁、軍隊、厩舎、モスク、学校、浴場、墓地、庭園といった様々な施設を備えていました。

ヨーロッパにはプラハ城など「街の中の街」のようなお城が他にもありますが、アルハンブラは世界でも最も大きい城と言われるプラハ城よりさらに大きい宮殿です。ちなみに比較するとアルハンブラ長さ 740m 幅 205 mに対しプラハ城約570m、平均幅約130m。

このアルハンブラ宮殿の大部分はナスル朝の時代に建設されたのもで、スルタンの居所として用いられていました。アルハンブラ宮殿はムスリム建築様式で、当初から全体の形が計画されていたのではなく、異なる時代に建てられた様々な建築物の複合体で、時代により建築様式や形状などが異なるところも面白さの一つです。
具象的なデコレーションではなく全体に模様を散りばめるイスラム様式のデコレーションはアールデコ期のバカラ製品のインスピレーションの源となっていますが、このアルハンブラは極めて良い例だと思います。

音楽や文学にも取り上げられるだけあって極めて美しい建造物の数々で、このブロブページの写真を選ぶのにも困ってしまったほどでした。
ナスル朝一代目のモハメド1世

ナスル朝はイベリア半島最後のムスリム政権。ナスル朝一代目のモハメド1世はカスティリア王国の重税に対する民衆の不満を利用して、グラナダを首都としたナスル朝グラナダ王国を建国します。
モハメド1世と モハメド2世60年の歳月をかけ、水道を設置し、アルカサーバの拡張工事を行い、その後も歳月と共に建物や塔を建築していきます。


モハメド1世時代のアンダルシア地方の日常風景
http://www.teutonic.altervista.org/より



モハメド1世と2世が拡張したアルカサーバ

1319年のイスマイル1世統治下オジミン将軍率いる
グラナダ王国騎馬隊が圧勝したカスティリア王国との戦い。
キリスト教徒には「グラナダ ベガでの大惨事」として記憶されています。


1330年頃のイベリア半島地図

グラナダ王国は常にカスティリア王国だけでなく当時アンダルシア地方を占領していたモロッコ軍と幾度となく戦ったり平和条約を交わしたりを繰り返しますが、1333年王位についたユースフ1世とその息子のムハンマド5世の時代にアルハンブラ宮殿を大規模に拡張します。それはナスル朝の黄金時代でもありました。ユースフ一世時代、特に1344年からリコンキスタに興味の薄いカスティリア王国のアルフォンソ11世との間に10年間の平和条約を結び、それを利用して、文化の繁栄と建設物の充実に力を注ぎ、賢い政策を展開します。


ユースフ1世時代のハーレム
http://www.teutonic.altervista.org/より


アルハンブラ宮殿ディテール
ナスル朝の紋が入っています
Photo: ©SanchoPanzaXXI


ユースフ一世の時代は城廊では、マチューカの塔、コマーレスの塔、正義の門、スィエテ・スエーロスの門、宮殿ではコマレス宮を中心とする建物が造られました。ムハンマド5世の時代には、城廊では、唯一アラベスク模様の装飾があるぶどう酒の門、宮殿では特に有名なライオンの中庭を中心とする建物が造られました。ライオンの中庭は、長さ28メートル、幅16メートルで、庭を囲む4つの建物には124本の美しいレリーフ装飾の大理石円柱が立ち並んでいいます。中庭の東側にある諸王の間には、10人のアラブ人貴族が描かれています。

 ライオンの中庭
Photo©Jebulon


ライオンの中庭の回廊の天井
Photo©Jebulon


ライオンの中庭のライオンたち
Photo©Jebulon



ムハンマド5世没後、ナスル朝は約100年間存続しますが、新たな建造物はほとんど建てられませんでした。キリスト教徒のリコンキスタ運動の波を巧みに避けてイベリア半島で唯一存続したムスリム政権のグラナダ王国でしたが1469年スペインのフェルディナンド2世とイザベラ・ディ・カスティリアの婚姻でより強化されたキリスト教徒リコンキスタの前で、最後のムスリム政権は終わりを告げます。


1492年、グラナダが陥落するとアルハンブラ宮殿にも一部手が加わります。グラナダがキリスト教徒の手に渡った直後に、神聖ローマ帝国のカルロス5世(カール5世がこの地を避暑地として選び、カルロス5世宮殿を建設。当時イタリア留学していたペドロ・マチューカが、正方形の建物の中央に、円形の中庭を設けるという設計をし(現在も未完成)、スペインにおける純イタリア様式の成功傑作と称されている。


カルロス5世(カール5世宮殿ファサード
Photo©Rose Selavy


カルロス5世(カール5世宮殿内部
Photo©Ra-smit

カルロス5世(カール5世



こちらは有名なギター曲「アルハンブラの思い出」のリンク
1896年作曲。オリジナル・作曲者のFrancisco Tarrega の演奏です。
https://www.youtube.com/watch?v=3T9wRhq8SYw



アルハンブラ物語を書いたIrving Washington




2017年8月10日木曜日

アンティーク バカラ パリ  BACCARAT PARIS



ジルベールの同型に米粒状のカットないタイムレスなデザインです。
同じカットのロングステムヴァージョンもあり、そちらもパリと呼ぶ人が多いですが、ロングステムの本当のモデル名はマレンゴ(MARENGO)になります。

ある文献ではパリのカットだけでなくジルベール本体もジャン・リュースの作とするものもあるのですが、本当でしょうか?裏ずけが取れていないのでご存知の方かいましたらご教授ください。

*画像のデキャンタのストッパーはオリジナルの形状ではありません。








エピソード
普通は名前の由来を書きますがフランスの首都「パリ」については、日本の雑誌のほうがよほど詳しく有益な情報が出ていると思うので省略し、この項目ではこのグラスをデザインしたジャン・ルースについて少し書きたいと思います。

ジャン・リュース(Jean Luce)
ジャン・リュースは日本ではあまり知名度がありませんが、作品写真を多数拝借した1stdidsのサイト(https://www.1stdibs.com/creators/jean-luce/furniture/)をご覧いただければわかるように、彼の作品は死後50年以上経過した今、一流のファインアーティスト並みの値段で取引されている重要な作家です。


ジャン・リュース(JEAN LUCE 1895- 1964)は1895年パリ生まれの陶磁器ガラス器のデザイナー。ジャンは陶磁器店を営む父親ポール・リュースの元でテーブルウエアに親しみながら育ちます。16歳の時に初めてガリエラ・ミュージアムに作品を展示し、その後数々の作品を発表し続けます。

ジャン・リュースは弱冠18歳で1913年の・ペティ・パレで行われた重要なアートの展示会サロン・ドートンヌ(Salon d’automne)にも参加しています。

1912年サロン・ドトンヌ会場風景

ちなみにサロン・ドートンヌは1903年から始まったアート展示会でセザンヌ、ゴーギャン、マティス、ピカビア、ピカソなどの一流著名画家も参加しています。当時大変に保守的だと考えられていたフランスのサロン(フランス芸術家協会のサロン展及び国民美術協会サロン展など)への反抗があったと言われていて、現在でもパリが芸術の都といわれるのもサロン・ドートンヌ展があってのことだったととさえ言われていいます。
サロン・ドートンヌの主催元はサロン・ドートンヌ協会(Société du Salon d'automne)で現在も毎年秋にパリ市内にて開催。多くのサロンが衰退する中、現在も企業スポンサーを得て、単独での大会場開催で、個人アーティストの応募に応える数少ない国際サロンのひとつです。

ジャン・リュースが参加した1913年のSalon d’automneはキュビズムが主流だったと言われています。

1913年出展されたFresnaye Conquestの絵画



1937年サロン・ドートンヌポスター
©Georges Dufrénoy


さて、ジャン・リュースの話にもどりますと、ジャン・リュースは1923年、一家の店をグラン・パレにほど近いRue de la Boetieに移転しさらにそのプレステージを高め、アールデコをアールデコならしめた1925年の万博、ジュバリエがバカラ内で確固たる位置を確立した通称アールデコ博で、弱冠30歳で審査員を務めています。


ジャン・ルースが1925年の万博に出展したお皿

1931年には一家の店の経営を掌握し、1935年がヨーロッパ大陸とアメリカ大陸を結ぶ客船ではフランス最大のCompagnie Générale Transatlantiqueの豪華客船の一等の陶磁器、グラス類、銀器類の食器デザインををを引き受けるなどビジネスマンとしてもとても優秀なデザイナーだった様です。

Compagnie Générale Transatlantiqueの豪華客船で
シカゴの万博に行きましょう、という広告
collection of David Levine (http://www.travelbrochuregraphics.com)


Compagnie Générale TransatlantiqueのためにJean Luceがデザインしたコーヒーカップと灰皿



さらにジャン・ルースは1930年代このパリの様にバカラやサン・ルイなどの一流クリスタルメーカーともコラボレーションしています。
1937年にはUAM (Union des Artistes Modernes・モダンアーティスト・ユニオン)のメンバーに。
1949-50年頃パビリオン・デ・マルサンで開催された「Formes Utiles」展のガラス製食器棚セクションの責任者でもありました。


1950年代にはソラ・フランスのためにステンレス製プレートをデザインしています。サン・ルイのどれがルースの作品か調べてみましたがわかりませんでした。もしご存知の方がいましたらご教授ください。


また、パリのEcole des Arts Appliqués (応用芸術学校・現在のENSAAMA =L'École nationale supérieure des arts appliqués et des métiers d’art / 国立応用芸術工芸学校)にて教鞭をとり、セーブルで技術顧問も務めています。


以下はジャン・リュースのデザインの数々。フランスのデザイナーにしては線が太く、ちょっとイタリア的で男性的な大胆な造形ですが、それをうまくデコレーションと組み合わせています。まさしく時代のテーマに沿ったデザインと言えるでしょう。
(画像はhttps://www.1stdibs.com/creators/jean-luce/furniture/から拝借しています。)










 ジャン・リュース(Jean Luce)のサイン







2017年8月3日木曜日

バカラ カプリ BACCARAT CAPRI

2017年8月30日更新


バカラのカプリは「19世紀にインドのバローダ藩国王妃のためにデザインされたもの」という記述をあちこちで見かけます。疑り深い性格なのでウエッブショップの商品紹介ではなくもう少し信頼できる出典を探したのですが見つけられませんでした。でも、日本語だけでなく英語、伊語、仏語でも同じ内容を見かけますので根拠のある話なのでしょう。

プロパー品としては1981年リリース、、、と書きましたが1975年のカタログに掲載されているのを見つけましたのでそれ以前ということになります。最近製造が終了したようです。30年以上継続したロングセラーの人気品でした。女性的で流麗なフォルムが魅力的。長く使っても飽きのこないタイムレスな佳品です。


今回入手した品は新しいバカラマークがありバカラのロゴの入る前の品なので1980年代製造です。当ギャラリーでは主に20世紀前半の品を扱っているのですが例外的に6客限定で入手しました。。オリジナルの箱もありますが、6客用の輸送用梱包で、ギフトボックスではありません。



1975年のカタログページ

インドのバローダ藩国の宮殿


名前の由来:
カプリといえばイタリア南部のティレニア海にあるカプリ島(Isola di Capri)。
ナポリ市街からナポリ湾を挟んで南へ約30kmに位置します。
MAP

風光明媚な土地として、古代ローマ時代から知られていますし有名な観光地でもあります。青の洞窟と呼ばれる神秘的な青色を放つ海食洞がつとに有名。古代ローマ皇帝ティベリウスが統治期間の後半を過ごしたことでも知られています。

この島は元々はテレボアイ人が住んでいた島でしたが、のちに古代ローマ皇帝アウグストゥスが気に入り別荘地として島全体と対岸の土地を購入したとのこと。アウグストゥス自身は利用する機会に恵まれず、その後を継いだティベリウスは西暦26年からこの島に居を移し、隠棲しながら政務を行ないました。ティベリウスは島内に12の別荘を持っていたとされ、そのなかでも「イオの別荘」(Villa Jovis)は有名です。

Villa Jovis

また、島の周囲にはファラリョーニと言う奇岩が存在し、これに近づくため島を周遊する観光船が運行されています。
世界中から観光客の押し寄せる著名観光地なので島の中心の広場周辺は有名ブランドブティック、高級ホテルやレストランもならんでいます。

ファラリョーニ  Photo©Elenagm


カプリ島内の道

旅行者にとって島の最大の観光スポットは青の洞窟(Grotta Azzurra)は内側に入ると外からは予想もできない数十メートルの広大な空間が広がり、水中に伸びている穴を通して水面から洞窟全体が神秘的な紺碧の光を帯びています。
アンデルセンの『即興詩人』では、この洞窟が重要な舞台となっています。森鴎外の翻訳では、「琅玕洞」(ろうかんどう、琅玕=翡翠のこと)と訳されています。

青の洞窟 (Grotta Azzurra) Photo ©Elenagm


短期旅行者が楽しめる観光はその程度ですが、行ってみてこの島の本当の魅力は島に点在する別荘に滞在することだろうと思いました。もちろん別荘のオーナーに知り合いがいて招待してもらわないといけませんが。。。
特に島の高台を中心として、各界著名人の別荘が点在していて、その多くが「イオの別荘」に習ってか海を挑む断崖絶壁の上に建てられ、観光客の人混みとは無縁に、孤立した素晴らしい自然の中にあります。

中でも有名なのは文筆家クルツィオ・マラパルテ自身が考案し、1938年から設建設を始めたマラパルテ邸(Casa MalaparteまたはVilla  Malaparte)は今でも多くの人から「世界で最も美しい家」と言われています。設計はイタリアのモダニズム建築家アダベルト・リーベラにも依頼されますが、マラパルテが実際に建てたものとリーベラが残している図面とは大きく異なっているため、マラパルテ自身が大部分を設計したという説が依然として有力で未だに論争中。内装は有名画家なジョルジョ・デ・キリコの弟でやはり画家アルベルト・サヴィニオAlberto Savinio)が担当したと言われています。

マラパルテ存命中は多くの知識人、文化人がこの家に集まったそうです。

「世界で最も美しい家」などと書くと建築関係者から他にもっと美しい家があると異議抗議が来そうですが、建築自体云々ではなく、素晴らしい自然の中のロケーションとそのロケーションを最大に活かした建物という意味、と私は解釈しています。


海から見上げるマラパルテ邸 2010年にカプリに行った時の写真です。


クルツィオ・マラパルテ(Curzio Malaparte)はペンネーム
本名はクルト・エーリッヒ・スクケルト (Kurt Erich Suckert)
父親はドイツ人、母親は北イタリア出身

この家は一時期だけですが文化財団が所有した時期があり、その期間も一般公開はしていませんでしたが、クリエーターであれば滞在して、滞在期間中制作した作品を寄贈するという方法で訪問滞在が可能でした。
現在は個人所有のため一般には公開していないので内部を見ることはできません。
あの時立候補すればよかった、と後悔しても後の祭りです。。。

ただ、フランス ヌーベルバーグの巨匠ゴダール監督の映画「軽蔑」(1963年 原作はイタリアのアルベルト・モラビア)では後半、このマラパルテ邸が舞台になっているため、映画を通して内部や周辺の様子をうかがうことができます。絶景を額縁に入れたような大きな窓が特に印象的です。
平面レイアウトで見るとこ最上階の入って直ぐに、下の写真で見られるサロンがあり、左右に大きく4つの窓があり海と崖を挑めます。海を正面に見る一番奥の部屋は書斎、その手前の書斎とサロンの間、右がマラパルテの寝室、左手は主賓室になっています。下層階にさらに客用寝室が4部屋あります。


マラパルテ邸内部・左右に絶景を額縁に入れたような窓 J-L.ゴダール「軽蔑」より

マラパルテ邸内部・炎の向こう側に海が見える暖炉 J-L.ゴダール「軽蔑」より


マラパルテ邸・屋上に上がる階段 J-L.ゴダール「軽蔑」より

マラパルテ邸 図面 http://www.archidiap.com/opera/casa-malaparte/より