2017年11月28日火曜日

アンティーク バカラ モリエール BACCARAT MOLIE’RE

2018年1月5日更新


モリエールはカブールと同型でカットの異なるモデルです。
上部に施されたジュドルクのようなカットから下に垂れるように花のおしべのようなカットが伸びています。


1916年のカタログページ

1916年のカタログページの中段は、非常に似たデザインでコルネイユ(フランスの三大劇作家のうちのもう一人)は逆で下部に施されたジュドルクのようなカットから花のおしべのようなカットが上に伸びるように施されています。
一番下はモリエールに極めてよく似ていて角が尖っているカットのロンサール(Ronsard)はルネサンス期の詩人ピエール・ド・ロンサール(Pierre de Ronsard, 1524年 - 1585年)を指しています。モリエール、コルネイユと来たら、何故三つ目もフランスの三大劇作家の最後の一人ラシーヌにしなかったのでしょうか?ちょっと不思議ですね。






モリエール(Molière、1622年- 1673年)は、17世紀フランスの俳優、劇作家。コルネイユ 、 ラシーヌとともに古典主義の三大作家の一人。本名ジャン =バティスト・ポクラン(Jean-Baptiste Poquelin)。悲 劇は不得意で、鋭い風刺を効かせた数多くの優 れた喜劇を制作し、フランス古典喜劇を完成させたと言われています。

モリエール肖像画

三大作家の中でも最も重要といっても過言ではなく、一般に「モリエールの言葉」と言えばフランス語を指すくらいメジャーな存在で、イギリスのシェイクスピアに匹敵する作家であると同時に、太陽王ルイ14世の加護と寵愛を受けるだけでなく当時の貴族にも民衆にも大人気の舞台俳優として自作を演じました。
1987年から継続しているモリエール賞(PRIX MOLIERE)は演劇関連ではフランスで最もプレステージな賞の一つです。



モリエールという芸名の由来は諸説あり確かなことはわかりませんが、友人の間では、音楽家でバレーダンサーのルイ・モリエール (1615? -1688),に由来してるというのが有力です。(日本語版のモリエールに関するウィキペディア全く別の内容が記載されていますが、出典はフランス語版です。)

モリエールの代表作は『人間嫌い』 『女房学校』 『タルチュフ』 『守銭奴』 『病は気から』 『ドン・ジュアン 』 などが挙げられます。


モリエールは王家御用達の室内装飾業者という極めて裕福な家庭に生まれ育ち、芝居好きの祖父に連れられて劇場通いをしながら演劇に親しんで育ちます。当時の人気女優マドレーヌ・ベジャール と恋に落ち、極めて順調だった家業を継がず演劇を志す意志を描かめます。劇団を結成します。が、当時まだ常設劇場 が二つしかないパリで貴族の庇護 も受けず運営に失敗し、数日間とはいえ負債で投獄されるにまで至り1645年の公演を最後にパリにはいられなくなり南仏のドサ回りにでます。

マドレーヌ・ベジャール 

南フランス巡業時代についてあまり詳しくはわかって いませんが、とにかく、13年間の南フランス演劇修行の旅に出ます。この長い南仏の下積み時代には多くの人達の助けを得て徐々に演劇の評判を高め、経済的な基盤も固めます。
日本語版のモリエールに関するウィキペディアには嫉妬や陰謀などモリエールを取り巻く周りの人のネガティブな感情が強調されていますが、フランス語版では当時モリエールと旅の途中で知り合った人や、旅の一部に同行した人々は、「モリエールは率直かつ謙虚でで寛大で自由な精神を持った素晴らしい人柄で、劇団の人達はみな暖かく居心地の良い上に美食家揃いだった。」など、その素晴らしい人間性が語られています。
1656年11月、劇団の庇護者の1人であったオービジュー伯爵が 他界。1657年に同じく庇護者の1人であったコンティ公がカトリックへ改宗し、カトリックの秘密結社である聖体秘蹟協会の一員となりモリエールらの劇団は庇護を失うだけでなく「罪深い娯楽」として激しい弾圧の対象となります。当然安定指定だ財政も揺らぎ、それをきっかけに、劇団はパリに帰還することを決意します。
パリ進出のため1658年まずパリの目と鼻の先のルーアンで興行し大成功を収めるだけでなく、ルーアンに滞在中、パリでの庇護者を探す目的で、数回パリへ赴 き、結果、ルイ14世の弟であるフィリップ1世 の庇護を受けることに成功 し、王弟殿下専属劇団(Troupe de Monsieur)との肩書を獲得し、同年10月 24日にはルイ14世の御前で演劇を行うことが許され、大成功を収めます。

こうしてモリエールとその劇団は、国王と延臣たちに気に入られ、プチ・ブ ルボン劇場を使用する許可を獲得 。1658年11月には、パリの観客の 前にデビューし、『 粗忽者』、『恋人の喧嘩』を2-30回上演するほどの成功を収めます。


プチ・ブ ルボン劇場

1660年10月、ルーヴル宮殿の拡張工事のためプチ・ブルボン劇場の解体工事が始まると、モリエールとその劇団は パレ・ロワイヤル の使用権を与えられ、更に貴族たちの館をプライベートな上演を行うなど、 国王の寵愛を集める など、地盤を固めます。

パレ・ロワイヤル改修後の初公演は、確実に成功する喜劇の他に『ドン・ガルシ・ド・ナヴァール 』 というタイトルの悲劇を上演しますが、喜劇の名声が定着していた劇団の悲劇は不評で、この演目はモリエールの生前数回の上演にとどまり、以後モリエールの自作劇は喜劇のみになります。
パレ・ロワイヤル

その失敗から喜劇に専念することを決意したモリエールは『亭主学校』を制作、王侯貴族たちの関心を惹 き、次いで王のために上演させる『はた迷惑な人たち』 を制作します。この作品は国王陛下をはじめ、貴族たちに大評判だっためパリ市民たちの好奇心を刺激し 、一般公演も記録的な大盛況 となります。
その後『女房学校』『 女房学校批判』『画家の肖像』 などを続けて発表し、1664年『強制結婚』の初演がルーヴル宮殿にて行われた。第2 作目のコメディ=バレエ 
1664年1月『強制結婚』の初演がルーヴル宮殿にて行われた。『はた迷惑な人たち』に次ぐ第2 作目のコメディ=バレエ を「王のバレエ」として作成し大好評をはくします。それまでバンスラード が独占していた王のためのバレエを書く権利をモリエールも獲得します。
『エリード姫』では上品で格調高い宮廷の趣味 を満足させるような作品も制作できるという技量を示し、成功の階段を登り続けます。ただ、喜劇『タルチュフ』 に関しては、国王は宗教問題への細やかな 配慮から、作者の善意を疑うものではないとしつつもこの劇の上演は一度きりでその後の公開を禁じられます。 
パリで地盤と定評を固めていた1662年初頭モリエールはアマンド・ベジャールと結婚します。アマンド・ベジャールはモリエールの元恋人マドレーヌ・ベジャールの妹とも娘とも言われていて、娘だとするとモリエールの娘である可能性もあると、モリエールを失脚させたい人々は近親相姦説まで持ち出したと言います。何れにしてもモリエールは自分より20歳若い妻に大変嫉妬深く、あまり幸せな結婚ではなかったようで、子供達もマドレーヌ=エスプリだけが成人しています。
モリエールの妻アマンド・ベジャール

1665年、モリエール劇団は正式に国王ルイ 14世庇護下に入り、「王弟殿下 の劇団」という称号を返上し、「国王陛下の劇団」と 名乗るように申し渡されます。劇団に与えられる年金も 6倍の6000リーヴルに増額されます。実力、人 気、規模で足元にも及ばなかったブルゴーニュ座とモ リエール劇団は対等の地位になります。

太陽王国王ルイ 14世


このような強力な国王の支援を受けて、モリエール は同年第4作目のコメディ=バレエ『恋は医者』を発表。成功を収めます。
1666年末から67年初頭にかけてサン=ジェルマン=アン=レー城で行われた「詩神の舞踊劇(Ballet des Muses)」 に参加します。詩人バンスラードの指揮の下に開かれる祭典「詩神の舞踊劇(Ballet des Muses)」 に参加します。この祭典はバンスラードが13の場面からなるオペラを書くために、モリエール 劇団やブルゴーニュ座、イタリア劇団の俳優たち、それに ジャン=バティスト・リュリ などの音楽家や 舞踊家が協力し、オペラが完成するという体をとっており、舞踊にはルイ14世をはじめとして、 ルイー ズ・ド・ラ・ヴァリエールやモンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス が参加するというもの。モリエールはこの祭典のために『メリセルト』『パストラル・コミック』 『シチリア人』 の作品を3つ制作します。
1666年2月サン=ジェルマン=アン=レー城からパリに戻った劇団は コルネイユ作の悲劇を『アティラ』が好評を得て、悲劇のレパートリーでも評価を高めることになります。1668年発表には1年ぶり待望の新作『アンフィトリオン 』 も大成功おを収めるなど、モリエール 劇団の成功は続きます。
その人気に陰りがではじめるのは1671年頃から、客足がやや減り始めますが、何より当時最も重要だったルイ14世の寵愛がジャン=バティスト・リュリ (バカラ製品のルリの名は彼に由来しています。)に移っていったためと考えられます。モリエールは当 初、リュリに対して庇護者のような立場にあり、彼と協力しておよそ10本のコメディ=バレエを制作し てきましたが、次第に頭角を現してきたリュリはさらにその野心を膨らませ、 王室音楽アカデミーの特権を手に入れた、結果、音楽オペラなどの上演権は彼が独占することとなり、パレ・ロワイヤルでの戯曲の公演においては6人の音楽家と12本のヴァイ オリンしか使用できないという制限を彼が設けたため、モリエールの活動を著しく制限することになります。

1673年2月17日、モリエールは『病は気から』の4回目の公演で体調不調を押して出演した舞台の直後、急遽担ぎ込まれた自宅にて大量の吐血をし亡くなります。妻のアルマンドは不在で、同建物に一時滞在中の修道女二人に看取られて亡くなります。
ただこの当時は、俳優になった瞬間にカトリック教会から破門を宣告され、教会からの異端扱いされていました。善良なカトリック教徒に戻るには、司祭の前で俳優業を棄てる旨を宣告しなければならなかったため、モリエールは修道女に秘蹟を受け ることを拒まれ、その望みを叶えずに息を引き取ります。

モリエールは最後の公演前、愛弟子のミシェル・バロンをそ ばに呼び寄せて、以下のように述懐したとい います。
私の生活に苦しみと喜びが混じり合っている間は、自分は幸福だ と考えてきた。だが今日は、苦痛に打ちのめされたような感じが する。満足や和らぎを期待できる時が来るとはどうしても思えな い。こうなってはもう諦める以外にない。悩みが悲しみが、息も つかず攻め立てて、私はこれ以上我慢できなくなった。人間とい うものは死ぬ前にどんなに苦しむことだろう。ともかく、私には よくわかっている。自分の死期が近いのだということが。 

前述のように、当時は俳優になった瞬間にカトリック教会から破門をされたように、新聞の俳優に対する社会的評価も低かったようで、当時でも作家が死んだときには、多少な りとも賞賛の念を込めた追悼記事を載せていたのが喜劇俳優でもあったモリエールに関しては、「ガゼ ット紙」は生存中も決して彼の名前を紙面に載せず、死亡時も一行の記 事を掲載しませんでした。 
モリエール評価が「偉大」となったのは19世紀に入ってからで、「古代からの純粋なフランス精神」の代弁者となり、モリエールを批判すること が、フランスを批判することと同義となり許されなってきます。その背後には他の3大戯曲作家のうちコルネイユの祖先がローマ人、ラシーヌの祖先がギリシャ人で唯一モリエールだけが純粋なフランス人と言えるということもあります。

そして冒頭でも書いたように、現在では、一般に「モリエールの言葉」と言えばフランス語を指し、イギリスのシェイクスピアに匹敵する作家と認識されています。

パリ、リシュリュー街のモリエールの銅像