2015年5月31日日曜日

アンティークバカラ フジェール (シダ) BACCARAT FOUGE'RES


繊細で上品なアール・ヌーヴォー調のデコレーションが人気のアイテムで完成度の逸品です。製造期間は 19世紀末~20世紀初頭 、1907年のカタログにも1916 年のカタログにも掲載されているアンティーク品。古いこともありなかなか入手出来ません。


在庫状況や個々のコンディションはオークションページをご覧下さい。



バカラ1907年テーブルウェアカタログ







名前の由来
Fougèresフジェールとはフランス語で羊歯(シダ)の意。
フランス、ブルターニュ地方には 同じくフジェールFougèreと名のつく町があり同名の貴族がいて同名のお城がありました。このお城は(http://www.chateau-fougeres.com) 有名ですが、エッチングの模様から普通に考えて、植物のシダに由来していると考えた方がいいでしょう。

バカラのモデルは貴族の名やお城名をとっている物も多く、このフジェール家のフジェール城も有名なのでこの項の文末に少し加筆しました。ご興味のある方はご覧下さい。

©Clemense1980


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©Galleria Kajorica

アンティークバカラFougèresデキャンタL
首下容量 800ml
バカラマーク無し1936年以前
直径12cm H=22cm  ストッパー付きH=28cm

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©Galleria Kajorica

アンティークバカラFougèresデキャンタXL
首下容量 1050ml
バカラマーク無し1936年以前
直径12.8cm H=23.5cm  ストッパー付きH=29cm


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©Galleria Kajorica
アンティークバカラFougèresフジェール クープグラス
バカラマーク無し1936年以前
直径9.5cm H=10.35cm
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©Galleria Kajorica
アンティークバカラFougèresフジェール グラスL
バカラマーク無し1936年以前
直径8cm H=15cm

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Photo© Luna04
フランス、ブルターニュ地方には フジェールFougèreと名のつくという町があり同名の貴族がいました。同名の古城は現存します。

フジュール(Fougères)へはパリのモンパルナス駅からTGVでLavalまで約1時間40分乗り、バスに乗り換えて約1時間合計でおおよそ2時間50分で到着します。

お城はもともとフジュール家により11世紀の初頭に建てられ何度か破壊されたり再建されたりしながら、1428年にはブルターニュ公の手に渡ります。当時はブルターニュはまだフランスからは独立した公国でフランスの侵略に対するブルターニュ公国の重要な防御システムした。

15世紀にはピエール二世によって強化され、ふたつの塔か増設され、16世紀にはフジュール統治者のものとなり1793年にはチョワン一族の手に渡り1810年に破壊されています。


1828年にここを訪れたバルザックはこの城からインスピレーションを得て処女作 Les Chouans (チョワン一族) を書いています。(日本語訳は出版されていないようです。)

©Levieuxchiendetalus

2015年5月26日火曜日

ヘミングウェイのテーブル

ピンクを基調としたテーブルセッティング             Photo©Galleria Kajorica
グラスはヴェネツィアングラス(?多分)

ラム酒の事を書こうと思いキューバの写真を見直していたらFinca Vigía の写真が出て来たのでこちらを先に書く事にしました。
Finca Vigía(フィンカ・ヴィヒア=日本語表記は普通ビヒア)文豪ヘミングウェイが人生で最も長く(1939-1960) 住んだという家。キューバの首都ハバナの郊外南西約12kmのところにあり、現在はミュージアムとして一般に公開されています。内部には踏込めず窓の外から鑑賞するのですが、どの部屋も窓が大きく想像以上によく見えました。

観光客は皆タクシーでのりつけますが私は市バスで行きました。その土地の公共交通機関に乗らないとその国の文化は判らない、というのが持論です。ハバナにはバスのルートマップという物がないのでルートをあらかじめ知っている人しか乗れません。でもキューバ人は道をを訊いたり、何処に行くにはどのバス停で降りるか等を尋ねるととても親切。私が住んでる国の人達みたいに自信を持って間違った事教えたりせず、皆結構正確です。

ィラ・フィンカ・ヴィヒアは熱帯植物の生茂る広い敷地の中にありオアシスの様。家の中はどの部屋も鹿の頭の剥製が飾られていてヘミングウェイの狩猟好きぶりがうかがえます。私個人は反狩猟派ですがこの家にはハンティング・トロフィーは欠かせない存在の様に思えます。


テーブルウェアも上下写真のように極上の趣味ですが、この家に6ヶ月暮らしたというヘミングウェイの最後の秘書で義娘のヴァレリー・ヘミングウェイはミュージアムになった後にここを訪れ「私がこのダイニングルームで見たのは重たい木のテーブルや陶磁器等ではなく様々な料理とワインと会話と笑い声だった」と書いています。確かに「物」達はあくまで暮らしの脇役。使う人がいて、その人なりの使い方があって初めて生きるのかもしれません。

ダイニングルーム                       Photo©Galleria Kajorica

正面玄関                Photo©Galleria Kajorica
テラス側出入り口          Photo©Galleria Kajorica

このブログは食卓がテーマのはず、でも仕事柄どうしてもインテリア全般にも目が行ってしまう。
全体にとても良い趣味なのででダイニングルーム以外もご紹介します。
リビングルーム                             Photo©Galleria Kajorica

ヘミングウェイの寝室                     Photo©Galleria Kajorica 

オフィス                           Photo©Galleria Kajorica

書斎                  Photo©Galleria Kajorica
人をレシーブするときはオフィスで執筆はこの小さな部屋でしていたのでしょう。

ゲスト用ベッドルーム        Photo©Galleria Kajorica

バスルームの体重計の脇の壁には体重のメモが、

最上階に展望台のあるはなれ                  Photo©Galleria Kajorica

望遠鏡を配した展望台                      Photo©Galleria Kajorica

遠くのハバナの町はこんな風に見える(肉眼で)            Photo©Galleria Kajorica

プール(空)、ボートの展示などもある敷地内に咲き乱れる熱帯の花  Photo©Galleria Kajorica


2015年5月23日土曜日

1930年代のフランス

イタリアに住んでいるので、フランスの現代史にはあまり詳しくありません。私の好きな1920-1960年のバカラは大半が1920-1930年代にデザインされたもの。その時代と言えば最初に頭に浮かぶのは1929年の世界大恐慌。社会的な背景は異なりますがイタリアはファシズムへドイツはナチズムへと傾倒していった時代です。

そんな時代にどうしてあんな優雅な贅沢ができたのだろう?とかねてから不思議だったので、ブログ開設にあたり調べてみました。世界大恐慌で最も打撃を受けたのはアメリカ、イギリス、ドイツだったそうで、フランスは政治の危機とかはあったものの脱農業期と重なり中小企業の発展があり比較的豊かで倒産等も西欧諸外国に比べて少なかったのだそうです。

実は音楽の分野でもこの頃のシャンソンは好きな曲が多いのでいくつかご紹介します。


リュシエンヌ・ボワイエ 「聞かせてよ愛の言葉を」

マレーネ・デートリリッヒ「愛が逝く時」
1931年代のマレーネ・デートリッヒのヒット曲。

ノエル・ノエル「家族のアルバム」

リュシエンヌ・ボワイエ(左)とマレーネ・デートリリッヒ(右) 

2015年5月16日土曜日

アンティークバカラ ルリ BACCARAT LULLI

2018年6月22日更新






アンティークバカラのモデルの中でも最も人気のあるモデルの一つと言えるルリ(LULLI)シリーズ。
バカラのアシッド・エッチングのモデルの中では最も優雅なグラスだと私は思います。
アシッド・エッチングの他のモデルと比較してクリスタルがやや薄めであることもありとても繊細な印象のグラスです。京都の高級料亭等で好んで使用されると聞きますが、そんな話も納得の行く上品さです。

名前の由来
Lulliという名はイタリアのトスカーナ地方(フィレンツェ、ピサ、シエナ等など多くの古都を擁するイタリア中部の州)に多い苗字でこのモデルはルイ14世の宮廷楽長だったジョヴァンニ・バッティスタ・ルッリ(1632-1687イタリア、当時はトスカーナ大公国出身の音楽家、イタリア語表記Giovanni Battista Lulli)にちなんでつけられました。たまにLullyとY終わりで書かれるのは、フランスに帰化したルッリのフランス名がジャン=バティスト・リュリJean-Baptiste Lullyだからです。ちなみにバカラの同型同模様でロングステムのモデルはスカルラッティという名がついていて、その名はドメニコ・スカルラッティ(1685-1757 イタリア、当時はナポリ王国出身の音楽家Domenico Scarlatti)にちなんでつけられているので、バカラはこのシリーズにバロック音楽家の名を付けようと考えたと解釈するのが適切でしょう。

そう思うと優雅な模様がバロック音楽的に見えて来るから不思議です。
文末にルッリとスカルラッティの音楽リンクも追加しました。バロック音楽にご興味のある方は是非聴いてみてください。




1933年 カタログ




LULLI 花瓶フラワーベース
直径154mm  高さ197mm

口広で下部の内径が86mmなので白ワインクーラーにも使えそうな佳品です。但しシャンパンボトルにはやや小さめでタイプにより氷で底上げが必要です。

さて、このモデルの名になっているルッリとはどんな音楽を作曲していたのでしょうか?リンクをご紹介します。

Lully - Idylle Sur La Paix - Air Pour Madame La Dauphine

バカラのルリは人気の高いアイテムですし、私も好きなのでこの項目もルッリの生涯などを紹介しもっと充実させたいのですが、このルッリという人物、肖像画からも、経歴からも煩悩のとても強そうなタイプで、あまり好きになれません。。。普通はイタリア名(ジョヴァンニ・バッティスタ・ルッリ Giovanni Battista Lulli)よりも、活躍し帰化したフランスでの名前ジャン=バティスト・リュリ(Jean-Baptiste [de] Lully)で呼ばれています。
フィレンツェの粉挽き職人の家庭に生まれ音楽を独学し、1646年ギーズ公の公子ロジェに見出されてフランスへと連れられ、ルイ14世の寵愛を受けてフランスの宮廷音楽家として権力を欲しいままにしする一方、リュリはその放蕩でも悪名高かったのです。



ジョヴァンニ・バッティスタ・ルッリGiovanni Battista Lulli)


ちなみにロングステムのモデルの名になっているドメニコ・スカルラッティ(Domenico Scarlatti)のご紹介もしていますのでスカルラッティの項目も是非ご覧ください。
手前味噌ですがこの項目は今までのブログの中で一番よく当時の状況を描けた項目だと思っています。




ドメニコ・スカルラッティ(Domenico Scarlatti)

グラスはステム無しのLulliの方が好きですが音楽はScarlatti の方が洗練されていてグラスにも似合っている様に私には思えますが、いかがでしょうか?

実はスカルラッティという姓では、ドメニコ父親のアレッサンドロスカルラッティ(1660-1725)も有名です。が、どちらかといえばドメニコ・スカルラッティの方がメジャーですし、ジョヴァンニ=バッティスタルッリとドメニコ・スカルラッティの間にはイタリア生まれで外国の宮廷音楽家だったという共通点があることから、ルッリはフランス宮廷、ドメニコ・スカルラッティはポルトガルの王女の音楽教諭から、王女の嫁ぎ先のスペインの宮廷音楽家になりました。)この場合はドメニコ・スカルラッティを指しているのだと思います。


アンティークバカラ ミケランジェロ BACCARAT MICHELANGELO

2017年7月7日更新

 Photo©Galleria Kajorica


アンティークバカラでもとりわけ人気のあるミケランジェロシリーズ、繊細なアラベスク模様のエッチングのデコレーションが優雅なグラスです。

1962年にアシッドエッチングのモデルが一掃された中、数少ないカタログに残されたモデルです。現行製品としては花瓶のみ残っていて、グラス類は全てアンティーク及びヴィンテージ品になります。
人気商品であっただけに製造数も多くアンティーク及びヴィンテージとしてオファーも多い反面、未だに人気がありヨーロッパのオークションハウスでも高値に終わる事が多い、普遍的な人気のあるアイテムです。



Photo©Galleria Kajorica









在庫状況や個々のコンディションはオークションページをご覧下さい。


特に赤ワイン用91mmは希少です。赤ワイングラスはヨーロッパでは最も使用頻度の多いグラスで破損頻度も高くなり、セットでも数が少なかったり、入っていないことが普通です。実際日本のマリア書房の書籍「Old Baccarat Tableware」やその他webshopなどのミケランジェロのグラスの集合写真でもこのサイズありませんし、本場フランスでさえこのサイズの存在を知らずに白ワイングラスとデザートワイングラスを赤ワイングラス白ワイングラスと呼んでしまっている方も多いのです。








製造時代別の特徴

2014年秋にフランスの家庭で三代にわたって愛用されていた不揃いのミケランジェロのセットを入手しました。元オーナー家族が壊す度に買い足して来たのかマークのない1936年以前製造の物と1936年以後製造の古いバカラマーク入りのグラスが混ざっていました。ウォーターゴブレットには1970年から使われた新しいバカラマーク入りのグラスのものも4客ありました。
バカラのアシッドエッチングのモデルは大半が1962年に製造中止なりましたが、複数の文献によるとミケランジェロだけは70年代頃迄継続したとあります。
私は新しいバカラマーク入りのミケランジェロのグラスをこのセットで初めて見ました。

また、このセットは年代別のグラスの特徴を同じモデルで比較出来て私にもとても良い勉強にりました。


年代別のグラス特徴としては:
・1936年以前製造の物は器の部分のガラスが平均的にやや厚めです。
またベースとの接着(溶着)部が若干イレギュラーです。目立つ気泡(中には三日月型の気泡も)などが入っている物が多くなります。また底裏に製造時のものとおもわれるXのような浅い溝があるのを良く見かけます。これはミケランジェロに限らす、バカラマークのない古い品に全てに言えます。
アールデコ期以前はロンズステムしかなかったので接着面が小さくまたカップ側だったので、ミケランジェロの様な大きな接着面にまだ職人が慣れていなかったためかもしれません。

・1936年以後製造の物は接着部も安定します。
・新しいバカラマーク入りのものも、1936年以後製造の物とほぼ同等品質ですが、器の部分のガラスが更にやや薄くなっている様です。

アシッドエッチングのクオリティーは、ローハンなどのグラヴィールとは異なり、見た目新旧のほとんど差はありませんが、特にデキャンタなどはの古い物は触るとしっかりと凹凸のメリハリを感じる事が出来ます。







ミケランジェロには非常によく似た品模倣品が存在しします。本物のミケランジェロと言って取引されているのをよく見かけます。ミケランジェロの模倣品の見分け方はこちらのページをご覧ください。





名前の由来
モデル名は言わずと知れたイタリア、ルネッサンスの巨匠ミケランジェロ(ミケランジェロ・ブオーナロティ1475-1564)の名がつけられています。但、ミケランジェロが作品にアラベスク模様を多用したというのではなく、もともとイスラム文化に起源をもつアラベスク文様がヨーロッパで最初に花を咲かせたのが 丁度ミケランジェロが活躍した1500年代のイタリアと時期と場所が重なるためと推測します。ちなみにフランスでアラベスク文様が多用されるようになったのはイタリアでの流行の後と言われています。

ミケランジェロの仕事に関してはこの項の文末に追記しましたので(未完)、ご興味のある方はご覧下さい。

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似てるけど違うもの I 
よく似ている品の違いの解説コーナーです)
エリザベートとミケランジェロのグラスの形状の違い


エリザベートとミケランジェロのグラスの形状は非常によく似ていますが異なります。
写真は同じ用途のグラスでの比較。

カップ部分ベース部分ともはほぼ同じですが、違いはカップとベースの間にあります。

ミケランジェロはベースとカップの間に一山突起があります。(正面から見て)その分エリザベートよりやや高さが高くなります。ただ、特に古いミケランジェロはこの部分の凹が鋭角のため汚れが入って取れなくなってしまっているものも少なく残念なのです。


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似てるけど違うもの II

ミケランジェロの類似品と模倣品


ヨーロッパ人のメンタリティーには犯罪組織でない限り、意図的に偽物をつくる、他社製品をまるまるコピーするという発想はないと言っていいと思いますが、大ヒット商品には良く似た追随品というのが存在します。バカラ製品にも一世を風靡したディアマン、バンブー、ミケランジェロ等には最盛期によく似た製品が複数存在しました。特にミケランジェロには極めて紛らわしいものもあり、eBayやヤフオクなどでもバカラのミケランジェロと称して売られているのを時々見かけるので気をつけないといけません。
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似てるけど違うもの III


ミケランジェロの模倣品
極めて紛らわしいミケランジェロの模倣品
ebayやヤフオクでミケランジェロと断言して売られていrます。



左が本物   右は偽物




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似てるけど違うもの IV

ミケランジェロの類似品



こちらはメーカー、製品名不明。製造時期は1930年代前後と推定するフランチ古ガラスです。
バカラのミケランジェロに似たエッチングと同じくバカラリドに似た形状のフレンチアンティーク。模倣品と呼ぶほどは似ていず、雰囲気を残しながら別物にする努力をしているデザインと言えます。

また、軽く叩いたときのバカラ クリスタル特有の余韻を残す金属音がないのでクリスタルではなくガラスではないかと思われます。(たまにクリスタルと書かれていてもこの程度の製品もありますが。。)

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以下は本物ミケランジェロの単体写真です。
アンティークバカラ ミケランジェロ ピッチャーL
Ø11.5cm H23.5cm W14.3cm 


©Galleria Kajorica

©Galleria Kajorica

アンティークバカラミケランジェロ  シャンパンフルートH10cm

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ミケランジェロについて

システィーナ礼拝堂の天井画  photo©Antoine Taveneaux

ミケランジェロの事について何か書くのを後回しにしていたのは、私がイタリアに住んでいるからかもしません。
本国イタリアではレオナルド・ダ・ヴィンチに次いで、というか並んで、愛され尊敬されている芸術家、偉大な巨匠です。それに関して何か書くのはとても難しい事なのです。

ミケランジェロ・ブオナロッティは(1475-1564) 15世紀末から主には16世紀に活躍したルネッサンス期の主役的 彫刻家、画家、建築家で詩人です。

さてミケランジェロ代表作と言えば何といってもバチカン市国のシスティーナ礼拝堂の天井画。

文豪ゲーテをして、



たったひとりの人間がどれほどのことを成し遂げられるか、


                                        システィーナ礼拝堂を見るまでは誰にも判りえない。」 


とまで言わせた作品です。


とりわけ「アダムの創造」は何度見ても唸らされます。(私感)

その他ローマ市庁舎のあるカンピドリオ広場はミケランジェロの建築家としての力量が判りますし、ミラノのスフォルツァ城のミュージアムでは昨年からミケランジェロの遺作で未完のピエタ・ロンダニーニが展示されてるので、こちらは見に行ってから画像と感想を追加したいと思います。

この項目は多分何度も加筆することになると思うので、ご興味のある方は時々見ててみて下さい。
アダムの創造



カンピドリオ広場


Michelangelo Buonarroti (Italian architect, 1475-1564), “Piazza del Campidoglio,” 
©Institute Images Online, accessed June 21, 2015, http://westerncivart.com/items/show/3038.


日本語版のwikipediaのミケランジェロの略歴はエピソードが盛り沢山すぎてわかりにくいののと本場の伊語版と食い違う部分もあるので、複数文献を参照しながら伊語版を要約したものを少しずつ掲載更新していくことにしました。


ミケランジェロは1475年3月6日に、現在のイタリアのトスカーナ州アレッツォ近郊にあたるフィレンツェ共和国のカプレーゼに生まれます。ミケランジェロの父ルドヴィーコ・ディ・レオナルド・デ ィ・ブオナローティ・シモーニの家系は当時のトスカーナ大公国の首都フレンツェで二世紀に渡りConsiglio dei Cento Saviと呼ばれる市民代表兼政府幹部(神曲で知られるダンテ•アリゲーリもメンバーの一人でした)という良い家柄でしたがミケランジェロが生まれた頃大変な経済難に陥っていたため田舎のさして重要でもない役職を引き受けていました。その仕事の任期はミケランジェロ誕生後数カ月で終り一家でフィレンツェに戻りミケランジェロは幼少期をフィレンツェで送ります。母親フランチェスカ・ディ・ネリ・デル・ミニアート・シ エーナはミケランジェロがわずか6歳の時に他界します。


父ルドヴィーコは始めミケランジェロに人文系エリートの教育を受けさせようとしますが(イタリアではラテン語も含めた人文系を中心とした教育は今でもエリート教育と認識されています)本人は小さい頃から芸術関係にばかり強い興味を示します。当時はまだ「芸術家」の社会的地位は低く「職人」に近い認識であったため、由緒ある家系から「芸術家」輩出することは家の衰退であると考えた父ルドヴィーコは強く反対します。が、貧困に窮していた一家がミケランジェロの報酬を必要としていたため、ある意味運良くミケランジェロは晴れて1487年12歳で当時のフレンツェで最も重要なアーティスト、ドメニコ•ギランダイオに師事することができます。

階段の聖母(1491)


ケンタウロスの戦い(1492)
ギランダイオの弟子の時代のミケランジェロの処女作2点
タッチが非常に異なる二作です。
私感ではケンタウロスの戦いの方がミケランジェロらしい気がします。


このギランダイオの弟子の時期にミケランジェロはGiardino di San Marco (ジャルディーノ・ディ・サン・マルコ=聖マルコの庭園の意)と呼ばれる場所に出入るするようになります。

ジャルディーノ・ディ・サン・マルコは通称ロレンツォ・イル・マニフィコ=Lorenzo il Magnifico 壮大なロレンツォの意)と呼ばれた、優れた政治采配と芸術の擁護者でカリスマ的存在の当時のトスカーナ大公ロレンツォ・ディ・メディチが設立したヨーロッパで初めての美術学校になります。この学校はミケランジェロだけでなくボッティチェッリ等の優秀な芸術家を輩出していくことになります。



1492-1494
全てが上手くいっているように見えた時期は、1492年パトロンのロレンツォ・ディ・メディチが亡くなることで一転します。ロレンツォの長男で後継者ピエロ・ディ・メディチとミケランジェロの関係は始めよさそうに見えたものの、ロレンツォの死後しばらくするとメディチに滞在できなく状態となり、やむおえなくミケランジェロは親元に戻ります。
それでもピエロ・ディ・メディチはミケランジェロ発注を続けサント・スピリトの十字架(https://en.wikipedia.org/wiki/Crucifix_(Michelangelo)などを制作。1494年1月の大雪の際にはピエロはミケランジェロ呼び、メディチ邸の庭に雪の彫刻を制作させ、市民が鑑賞を楽しめるようにしたというエピソードが残っています。

1495-1496
ただ若干二十歳あまりのピエロの采配の下でフレンツェは衰退し始め、ロレンツォ・ディ・メディチの死の2年半後にはメディチ家は、フランス軍のイタリア侵攻と修道士ジロラモ・サヴォナローラの扇動による排斥運動でフィレンツェから追放されてしまい、ミケランジェロもこの政変の直前にフィレンツェを去り、ヴェネツィア、ついでボローニャへと居を移します。
フィレンツェの政争は落ち着きつつあった1494年の終わりごろにフランス軍も撤退したため、ミケランジェロはこのような情勢下の1495年フィレンツェへ戻ります。メディチ

メディチ家傍流のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチの発注で制作した「幼児洗礼者ヨハネ」をロレンツォから購入し枢機卿ラファエーレ・リアーリオ(ローマ教皇シクストゥス4世の甥)は彫刻自体の出来栄えに感銘を受けてミケランジェロをローマへと招きます。この取引には、ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコがミケランジェロに発注したのはローマ時代の彫刻贋作であったとか、ミケランジェロが受け取ったのは枢機卿の支払った金額の15%だったとか様々な詐欺的ないエピソードが付随しますが、結果的にミケランジェロは当時最も裕福なアートの収集家である枢機卿ラファエーレ・リアーリオと後に多くの協力を得る銀行家ヤコポ・ガッリとの信頼関係を得て、またその後数々の傑作を制作するローマへ移住することになります。

、、、続く