2015年5月16日土曜日

アンティークバカラ ミケランジェロ BACCARAT MICHELANGELO

2017年7月7日更新

 Photo©Galleria Kajorica


アンティークバカラでもとりわけ人気のあるミケランジェロシリーズ、繊細なアラベスク模様のエッチングのデコレーションが優雅なグラスです。

1962年にアシッドエッチングのモデルが一掃された中、数少ないカタログに残されたモデルです。現行製品としては花瓶のみ残っていて、グラス類は全てアンティーク及びヴィンテージ品になります。
人気商品であっただけに製造数も多くアンティーク及びヴィンテージとしてオファーも多い反面、未だに人気がありヨーロッパのオークションハウスでも高値に終わる事が多い、普遍的な人気のあるアイテムです。



Photo©Galleria Kajorica







在庫状況や個々のコンディションはオークションページをご覧下さい。


特に赤ワイン用91mmは希少です。赤ワイングラスはヨーロッパでは最も使用頻度の多いグラスで破損頻度も高くなり、セットでも数が少なかったり、入っていないことが普通です。実際日本のマリア書房の書籍「Old Baccarat Tableware」やその他webshopなどのミケランジェロのグラスの集合写真でもこのサイズありませんし、本場フランスでさえこのサイズの存在を知らずに白ワイングラスとデザートワイングラスを赤ワイングラス白ワイングラスと呼んでしまっている方も多いのです。









製造時代別の特徴

2014年秋にフランスの家庭で三代にわたって愛用されていた不揃いのミケランジェロのセットを入手しました。元オーナー家族が壊す度に買い足して来たのかマークのない1936年以前製造の物と1936年以後製造の古いバカラマーク入りのグラスが混ざっていました。ウォーターゴブレットには1970年から使われた新しいバカラマーク入りのグラスのものも4客ありました。
バカラのアシッドエッチングのモデルは大半が1962年に製造中止なりましたが、複数の文献によるとミケランジェロだけは70年代頃迄継続したとあります。
私は新しいバカラマーク入りのミケランジェロのグラスをこのセットで初めて見ました。

また、このセットは年代別のグラスの特徴を同じモデルで比較出来て私にもとても良い勉強にりました。


年代別のグラス特徴としては:
・1936年以前製造の物は器の部分のガラスが平均的にやや厚めです。
またベースとの接着(溶着)部が若干イレギュラーです。目立つ気泡(中には三日月型の気泡も)などが入っている物が多くなります。また底裏に製造時のものとおもわれるXのような浅い溝があるのを良く見かけます。これはミケランジェロに限らす、バカラマークのない古い品に全てに言えます。
アールデコ期以前はロンズステムしかなかったので接着面が小さくまたカップ側だったので、ミケランジェロの様な大きな接着面にまだ職人が慣れていなかったためかもしれません。

・1936年以後製造の物は接着部も安定します。
・新しいバカラマーク入りのものも、1936年以後製造の物とほぼ同等品質ですが、器の部分のガラスが更にやや薄くなっている様です。

アシッドエッチングのクオリティーは、ローハンなどのグラヴィールとは異なり、見た目新旧のほとんど差はありませんが、特にデキャンタなどはの古い物は触るとしっかりと凹凸のメリハリを感じる事が出来ます。











名前の由来
モデル名は言わずと知れたイタリア、ルネッサンスの巨匠ミケランジェロ(ミケランジェロ・ブオーナロティ1475-1564)の名がつけられています。但、ミケランジェロが作品にアラベスク模様を多用したというのではなく、もともとイスラム文化に起源をもつアラベスク文様がヨーロッパで最初に花を咲かせたのが 丁度ミケランジェロが活躍した1500年代のイタリアと時期と場所が重なるためと推測します。ちなみにフランスでアラベスク文様が多用されるようになったのはイタリアでの流行の後と言われています。

ミケランジェロの仕事に関してはこの項の文末に追記しましたので(未完)、ご興味のある方はご覧下さい。

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似てるけど違うもの I 
よく似ている品の違いの解説コーナーです)
エリザベートとミケランジェロのグラスの形状の違い


エリザベートとミケランジェロのグラスの形状は非常によく似ていますが異なります。
写真は同じ用途のグラスでの比較。

カップ部分ベース部分ともはほぼ同じですが、違いはカップとベースの間にあります。

ミケランジェロはベースとカップの間に一山突起があります。(正面から見て)その分エリザベートよりやや高さが高くなります。ただ、特に古いミケランジェロはこの部分の凹が鋭角のため汚れが入って取れなくなってしまっているものも少なく残念なのです。


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似てるけど違うもの II

ミケランジェロの類似品と模倣品

ヨーロッパ人のメンタリティーには犯罪組織でない限り、意図的に偽物をつくる、他社製品をまるまるコピーするという発想はないと言っていいと思いますが、大ヒット商品には良く似た追随品というのが存在します。バカラ製品にも一世を風靡したディアマン、バンブー、ミケランジェロ等には最盛期によく似た製品が複数存在しました。特にミケランジェロには極めて紛らわしいものもあり、eBayやヤフオクなどでもバカラのミケランジェロと称して売られているのを時々見かけるので気をつけないといけません。
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似てるけど違うもの III


ミケランジェロの模倣品
極めて紛らわしいミケランジェロの模倣品
ebayやヤフオクでミケランジェロと断言して売られていrます。



左が本物   右は偽物




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似てるけど違うもの IV

ミケランジェロの類似品



こちらはメーカー、製品名不明。製造時期は1930年代前後と推定するフランチ古ガラスです。
バカラのミケランジェロに似たエッチングと同じくバカラリドに似た形状のフレンチアンティーク。模倣品と呼ぶほどは似ていず、雰囲気を残しながら別物にする努力をしているデザインと言えます。

また、軽く叩いたときのバカラ クリスタル特有の余韻を残す金属音がないのでクリスタルではなくガラスではないかと思われます。(たまにクリスタルと書かれていてもこの程度の製品もありますが。。)

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以下は本物ミケランジェロの単体写真です。
アンティークバカラ ミケランジェロ ピッチャーL
Ø11.5cm H23.5cm W14.3cm 


©Galleria Kajorica

©Galleria Kajorica

アンティークバカラミケランジェロ  シャンパンフルートH10cm

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ミケランジェロについて

システィーナ礼拝堂の天井画  photo©Antoine Taveneaux

ミケランジェロの事について何か書くのを後回しにしていたのは、私がイタリアに住んでいるからかもしません。
本国イタリアではレオナルド・ダ・ヴィンチに次いで、というか並んで、愛され尊敬されている芸術家、偉大な巨匠です。それに関して何か書くのはとても難しい事なのです。

ミケランジェロ・ブオナロッティは(1475-1564) 15世紀末から主には16世紀に活躍したルネッサンス期の主役的 彫刻家、画家、建築家で詩人です。

さてミケランジェロ代表作と言えば何といってもバチカン市国のシスティーナ礼拝堂の天井画。

文豪ゲーテをして、



たったひとりの人間がどれほどのことを成し遂げられるか、

                                        システィーナ礼拝堂を見るまでは誰にも判りえない。」 


とまで言わせた作品です。


とりわけ「アダムの創造」は何度見ても唸らされます。(私感)

その他ローマ市庁舎のあるカンピドリオ広場はミケランジェロの建築家としての力量が判りますし、ミラノのスフォルツァ城のミュージアムでは昨年からミケランジェロの遺作で未完のピエタ・ロンダニーニが展示されてるので、こちらは見に行ってから画像と感想を追加したいと思います。

この項目は多分何度も加筆することになると思うので、ご興味のある方は時々見ててみて下さい。
アダムの創造



カンピドリオ広場


Michelangelo Buonarroti (Italian architect, 1475-1564), “Piazza del Campidoglio,” 
©Institute Images Online, accessed June 21, 2015, http://westerncivart.com/items/show/3038.


日本語版のwikipediaのミケランジェロの略歴はエピソードが盛り沢山すぎてわかりにくいののと本場の伊語版と食い違う部分もあるので、複数文献を参照しながら伊語版を要約したものを少しずつ掲載更新していくことにしました。


ミケランジェロは1475年3月6日に、現在のイタリアのトスカーナ州アレッツォ近郊にあたるフィレンツェ共和国のカプレーゼに生まれます。ミケランジェロの父ルドヴィーコ・ディ・レオナルド・デ ィ・ブオナローティ・シモーニの家系は当時のトスカーナ大公国の首都フレンツェで二世紀に渡りConsiglio dei Cento Saviと呼ばれる市民代表兼政府幹部(神曲で知られるダンテ•アリゲーリもメンバーの一人でした)という良い家柄でしたがミケランジェロが生まれた頃大変な経済難に陥っていたため田舎のさして重要でもない役職を引き受けていました。その仕事の任期はミケランジェロ誕生後数カ月で終り一家でフィレンツェに戻りミケランジェロは幼少期をフィレンツェで送ります。母親フランチェスカ・ディ・ネリ・デル・ミニアート・シ エーナはミケランジェロがわずか6歳の時に他界します。


父ルドヴィーコは始めミケランジェロに人文系エリートの教育を受けさせようとしますが(イタリアではラテン語も含めた人文系を中心とした教育は今でもエリート教育と認識されています)本人は小さい頃から芸術関係にばかり強い興味を示します。当時はまだ「芸術家」の社会的地位は低く「職人」に近い認識であったため、由緒ある家系から「芸術家」輩出することは家の衰退であると考えた父ルドヴィーコは強く反対します。が、貧困に窮していた一家がミケランジェロの報酬を必要としていたため、ある意味運良くミケランジェロは晴れて1487年12歳で当時のフレンツェで最も重要なアーティスト、ドメニコ•ギランダイオに師事することができます。

階段の聖母(1491)

ケンタウロスの戦い(1492)
ギランダイオの弟子の時代のミケランジェロの処女作2点
タッチが非常に異なる二作です。
私感ではケンタウロスの戦いの方がミケランジェロらしい気がします。


このギランダイオの弟子の時期にミケランジェロはGiardino di San Marco (ジャルディーノ・ディ・サン・マルコ=聖マルコの庭園の意)と呼ばれる場所に出入るするようになります。

ジャルディーノ・ディ・サン・マルコは通称ロレンツォ・イル・マニフィコ=Lorenzo il Magnifico 壮大なロレンツォの意)と呼ばれた、優れた政治采配と芸術の擁護者でカリスマ的存在の当時のトスカーナ大公ロレンツォ・ディ・メディチが設立したヨーロッパで初めての美術学校になります。この学校はミケランジェロだけでなくボッティチェッリ等の優秀な芸術家を輩出していくことになります。



1492-1494
全てが上手くいっているように見えた時期は、1492年パトロンのロレンツォ・ディ・メディチが亡くなることで一転します。ロレンツォの長男で後継者ピエロ・ディ・メディチとミケランジェロの関係は始めよさそうに見えたものの、ロレンツォの死後しばらくするとメディチに滞在できなく状態となり、やむおえなくミケランジェロは親元に戻ります。
それでもピエロ・ディ・メディチはミケランジェロ発注を続けサント・スピリトの十字架(https://en.wikipedia.org/wiki/Crucifix_(Michelangelo)などを制作。1494年1月の大雪の際にはピエロはミケランジェロ呼び、メディチ邸の庭に雪の彫刻を制作させ、市民が鑑賞を楽しめるようにしたというエピソードが残っています。

1495-1496
ただ若干二十歳あまりのピエロの采配の下でフレンツェは衰退し始め、ロレンツォ・ディ・メディチの死の2年半後にはメディチ家は、フランス軍のイタリア侵攻と修道士ジロラモ・サヴォナローラの扇動による排斥運動でフィレンツェから追放されてしまい、ミケランジェロもこの政変の直前にフィレンツェを去り、ヴェネツィア、ついでボローニャへと居を移します。
フィレンツェの政争は落ち着きつつあった1494年の終わりごろにフランス軍も撤退したため、ミケランジェロはこのような情勢下の1495年フィレンツェへ戻ります。メディチ

メディチ家傍流のロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコ・デ・メディチの発注で制作した「幼児洗礼者ヨハネ」をロレンツォから購入し枢機卿ラファエーレ・リアーリオ(ローマ教皇シクストゥス4世の甥)は彫刻自体の出来栄えに感銘を受けてミケランジェロをローマへと招きます。この取引には、ロレンツォ・ディ・ピエルフランチェスコがミケランジェロに発注したのはローマ時代の彫刻贋作であったとか、ミケランジェロが受け取ったのは枢機卿の支払った金額の15%だったとか様々な詐欺的ないエピソードが付随しますが、結果的にミケランジェロは当時最も裕福なアートの収集家である枢機卿ラファエーレ・リアーリオと後に多くの協力を得る銀行家ヤコポ・ガッリとの信頼関係を得て、またその後数々の傑作を制作するローマへ移住することになります。

、、、続く