2024年11月26日更新
名前の由来
エリーザベトというモデル名は、「シシィ」の愛称であまりにも有名なオーストリア皇后エリーザベト・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ(1837-1898)にちなんで名付けられたといいます。バイエルン王家系統の名家の出身でハプスブルグ家に嫁ぎ、19世紀のヨーロッパ宮廷一といわれた美貌と型破りな行動で知られた シシィ 。彼女の生涯を辿った映画、本、ドラマは欧米で多数です。
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(よく似ている品の違いの解説コーナーです)
今年夏に入荷したグリーンの被せの入ったエリザベート1客だけ異なる色味の品が入っていたので少しだけ説明しておきます。
全体のセットは左側、黄緑色とか若草色と言っていい容易な緑。
1客だけ異なるのは右側、若干蛍光色に近いよいうな緑です。
色が異なるだけでなく左側はベースは透明なのに比較し、右側はベースまでグリーンの被せが入っています。
エッチングとシェイプはもちろん変わりません。
時期ですが、1客だけ後からリプレースメントとして購入したと推定すると右側の方が新しい事になります。両方とも古いタイプのバカラマークが入る時期の品です。
2枚目の写真にパントンで近似色を選んでみました。
もちろん紙に印刷された色とクリスタルの色は全く同じに名なり得ませんが。
©Galleria Majorca
エリザベート・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴィッテルスバッハ
ヴィンターハルター画
ヴィンターハルター画
エリザベート・アマーリエ・オイゲーニエ・フォン・ヴ ィッテルスバッハ(ドイツ語: Elisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach、1837年12月24日 - 1898年9月10 日)は、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝(兼国 王)フランツ・ヨーゼフ1世の皇后。「シシィ」(Sissi, Sissy, Sisi)の愛称で知られています。
シシィに関する映画、ドラマ、本は無数にあるので私があれこれ書く必要は無いかと思っていましたが、この項目だけが妙に簡単だったので加筆する事にしました。
エリザベートはバイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系のバイエルン公マクシミリアンとバイエルン王女ルドヴィカの次女として生まれます。父マクシミリアンは王位継承権からは遠く公務とは無縁であったため、狩りに行くなどして自由を満喫して育ちます。幼少の頃父マクシミリアンと共に街に出かけ、チター奏者に扮した父の傍らでチップを貰う少女に扮し、その時の小銭を自分で稼いだ唯一のお金と一生大切に持っていた、というエピソードは有名です。
婚約時代のエリザベート
1853年8月、姉ヘレーネの見合い相手だった、オーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ 1世に見初められて求婚され、翌年の1854年4月、16歳で結 婚しオーストリア皇后となります。
フランツ・ヨーゼフ 1世との間には始め二女をもうけますが、エリザベートが19歳の時ハンガリー旅行中に二歳の長女ソフィーを病気で亡くしてしまいます。その翌年1858年8月に長男ルドルフが生まれ、末娘のマリー・ヴァレリーはその10年後に生まれます。
ご成婚の様子
ルドルフ皇太子誕生直後のエリザベートと子供達。
壁の絵は夭逝したソフィー
シシィは当時のヨーロッパ宮廷一といわれた美貌でしたが、宮廷の厳格さに耐えられず、生涯に渡りさまざまな口実を見つけてはウィーンから逃避し続けたといいます。
極度なダイエットや過敏な性格、公務の常習エスケープや過度の浪費など必ずしも感心出来ない色々なエピソードも多く残したシシィでしたが、当時オーストリア帝国 の一部であったハンガリーは生涯愛し続け、またハンガリー独立の基礎を作ったとして今でもハンガリー国民から愛されているといいます。
極度なダイエットや過敏な性格、公務の常習エスケープや過度の浪費など必ずしも感心出来ない色々なエピソードも多く残したシシィでしたが、当時オーストリア帝国 の一部であったハンガリーは生涯愛し続け、またハンガリー独立の基礎を作ったとして今でもハンガリー国民から愛されているといいます。
1867年ハンガリー王妃としての戴冠式の日のエリザベート
エリーザベトの晩年最大の悲劇は、息子ルドルフ皇太子の自殺で (1889年、暗殺説もあり)。夫フランツ1世の死後喪服を着続けたマリア・ テレジアに倣い、その後彼女は死ぬまで喪服を脱ぐことはありませんでした。
Photo©Tasoskessaris
ルドルフ皇太子の自殺後、悲しい思い出とウィーンから逃げる様にギリシャのコルフ島にエリザベートが建設させたアキレイオンという夏の別荘。
(アキレイオンの名はギリシャ神話の英雄アキレウスに因んでつけられたとのこと)
1898年9月、旅行中のジュネーヴ・レマン湖のほとりで、イタリア人の無政府主義者ルイジ・ルケーニ に鋭く研ぎ澄まされた短剣のようなヤスリで心臓を刺されて殺害され、その生涯を閉じました。
その突然の訃報に接した際夫である皇帝は、悲嘆のあまり「この世はどこまで余を苦しめれば気がすむのか」と泣き崩れたと伝えられています。