2023年11月15日水曜日

アンティーク バカラ キャンドルスタンド E170 とジョルジョ・デ・キリコ邸 BACCARAT CANDE’LABRES E170 & FONDAZIONE GIORGIO DE CHIRICO


先週ローマに行き、街中心部スペイン広場にあるジョルジョ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico, 18887-1977)の自宅兼アトリエが美術館になったホームミュージアムを訪ね、バカラのキャンドルスタンドを見つけました。


今後特にリクエストでもない限り、入手の予定はないアイテムなのでジョルジョ・デ・キリコのホームミュージアムの写真と併せてキャンドルスタンドブログ項目を追加することにします。


デ・キリコはイタリアの画家、彫刻家。形而上絵画派を興し、後のシュルレアリスムに大きな影響を与えた重要なアーティストです。


バカラ 1893年カタログ

このカタログでの品番は灯数によりNo. 607Bから612Bまで



バカラ 1906−1907年 イルミネーションのカタログ

全て6灯でE170という品番に変わっています。



1893年、1906−1907年のカタログを見るとわかるように、同型でエッチング付きのセードのあるヴァージョン(左)とないバージョン(右)があります。


また、1893年のカタログのキャンドルホルダー下に下がっているストラス・ビーズの形状が異なりますが、1906−1907年 イルミネーションのカタログではデ・キリコ邸キャンドルスタンドと同じストラス・ビーズです。

RIzzoli2013年発行の書籍「Baccarat」掲載の大半のシャンデリアの写真はデ・キリコ邸キャンドルスタンドと同じストラス・ビーズです。



プロパー品としては中央部の最も高い部分にはデコレーションのためのクリスタルが入っていますが、(多分キャンドルの炎の高さでクリスタルが反射するように)デ・キリコ邸にあった品は中央部分もキャンドルスタンドになっていています。

この程度の簡単なイージーオーダーはバカラは受けていたはずです。




ダイニングルームに座るジョルジョ・デ・キリコの写真



デ・キリコ邸のバーワゴン

グラスは銀製



こちらはティーワゴン



ダイニングルーム

ダイニングテーブル上にはセンターピースに代わりにサモワールが。



サロンの暖炉の上にシンメトリーでキャンドルスタンドが2点置かれていました。



パリで知り合ったという二人目のポーランド人妻の肖像画



一つ一つは日常的なものを描いているのに取り合わせでシュールな感じのする絵画



愛情を言葉で表現しなかった父親の、肩に手を置いてくれた仕草を回想した絵画



最上階にあるジョルジョ・デ・キリコの簡素な寝室



妻の寝室と窓から見える有名なトリニタデイモンティ教会



最上階奥アトリエ



アパート地上階、誰にでも入れるアトリウムにある彫刻


 

2023年11月8日水曜日

アンティーク モーゼル ロイヤル MOSER ROYAL

 






このロイヤル·シリーズは1857年創立の由緒あるクリスタルメーカー、モーゼルを代表する製品です。


モーゼルはそれまでにもペルシャ王などに納品してきましたが、このモデルがきっかけで英国王エドワード7世から注文を受け、イギリス王室御用達となりました。



エドワード7世が妻アレクサンドラのために注文したという説もどこかで読みましたが、モーゼル社の公式ホームページを見ると「歴史」の項目に「このロイヤルシリーズの成功でエドワード7世の注文を受け英国王室御用達になった。」と書かれていて、若干ニュアンスが異なるように思います。

妻アレクサンドラのために注文したというのは要実証ですね。


スリムなシェイプのピッチャー

キュートな形状のリキュール用小型デキャンタ



品物の印象ですが、手に持った感覚としてまず非常に軽い。

これは大変な薄造りである他、無鉛クリスタルというのも大きいと思います。


クリスタルが極めて透明に近い。


クリスタの薄み(厚み)も含め個体差が少なく、極めて精巧な作り。

同時代のフレンチクリスタルの方が個体差多いように思います。


など色々フレンチクリスタルにはない新鮮さがあって中々面白いです。


また、細部写真を撮りましたが、極めて細かい斜め格子のダイヤモンドカットが液体を入れると屈折して拡大されるのもまた面白く思います。


液体を入れると屈折して拡大されるダイヤモンドカット



恒例 名前の由来の代わりにエドワード7世について書くことにします。



エドワード7世(アルバート・エドワード、1841年 - 1910年)は、母ヴィクトリア女王が長寿だったため1901年1月22日から60歳という高齢で晴れてグレート・ブリテンおよびアイルランド連合王国の国王、イギリス自治領の王、インド皇帝となります。なんだか今のチャールズ王みたいですね。そして在位は10年と続かず1910年に68歳で他界します。


ヴィクトリア女王の時代は歴史上イギリスが最も繁栄した時代。エドワード7世は地球上で最大の植民地帝国を受け継ぎます。


エドワードとデンマーク王クリスチャン9世の娘のアレクサンドラの結婚は1863年3月10日にウィンザー城のセントジョージ礼拝堂で挙式されました。


エドワード王子とアレクサンドラ王女の結婚式



当時のウェールズ皇太子エドワードとアレクサンドラのお気に入りの家はサンドリンガム ハウスでした。


結婚式から1年も経たない1864年1月8日、夫妻の長男アルバート・ヴィクター・クリスティアン・エドワードが早産で生まれ、後にクラレンス公となりますが、1892年に肺炎で亡くなります。


 次男の1865年6月3日に生まれジョージ・フレデリック・アーネスト・アルバートが王位を継承し後にジョージ5世となります。 


次に、1867年にルイーズ王女、1868年にヴィクトリア王女、1869年のモード王女を授かり、1871年に1日だけで夭逝したアレクサンダー・ジョンが最後になりました。


エドワードの妻アレクサンドラはダグマールの妹で、1866年にロシア王位継承者である将来のアレクサンドル3世と結婚しました。なので、エドワードはニコライ2世の義理の弟で、最後の皇帝ニコライ2世の叔父となります。 一方、エドワードの姉のビクトリア・アデレードは、1858年に後のドイツ皇帝フレデリック・ウィリアムと結婚しているので最後のドイツ皇帝となる第一子ヴィルヘルムはエドワードの甥ということになります。


彼は英国を米国、ロシア、イタリア、スペインに接近させ、フランスとの協商協約の締結(1904年)にも貢献。

ハプスブルク家と良好以上の関係を維持し、甥のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世との良好な関係を維持するためにあらゆる努力をし、その外交手腕から「ピースメーカー」と呼ばれていました。 ロシア皇帝ニコライ2世、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世、スペイン国王アルフォンソ13世の叔父(生来の叔父または後天的な叔父)でした。


 こうした親族関係やその外交手腕から、エドワード 7 世は「ヨーロッパの叔父」と呼ばれていました。



エドワード 7 世とアレクサンドラ女王の戴冠式。1902 年 8 月 9 日



世界最大のスペクタクル」というタイトルの

ニューヨークPUCK誌のエドワード7世の戴冠式の行列のイラスト



結婚前からプレイボーイの定評の高かったエドワード王子は、最後の娘モードが生まれる頃には女性との交友関係はあまりにも多くなり、オペレッタ歌手ホルテンス・シュナイダー(1833-1920)やデイジー・ブルック、 フランスの女優リリー・ラングトリーなどとのゴシップが絶えなかったといいます。エドワードの最後の、そしておそらく最大の愛は、古代スコットランドの血統を引くアリス・ケッペル(1868-1947)でした。 エドワードを最も魅了したのは明るさとはじけるような活力の持ち主アリス・ケッペルだったと言われています。 彼女とエドワードは1898年2月27日の昼食会で出会い、彼らの付き合いは生涯続きました。


でもエドワードが息を引き取る前日にエドワードが面会を望み、妻アレクサンドラにも面会を許可 されたのはアリス・ケッペルではなく、エドワードが若い頃に出会ったアグネス・カイザーだったといいます。


現在のチャールズ王の妻で女王のカミラは、アリス・ケッペルの曾孫娘にあたります。




アリス・ケッペル(左)・アグネス・カイザー(右)