2024年2月10日土曜日

アンティークバカラ 7743カット(ショニー)BACCARAT TAILLE’ 7743 (CHAUNY)

7743番カットのタンブラーシリーズ

通称ショニー



20世紀初頭のバカラを代表するタンブラーで下方に鱗状のカット上部に水平のカットが施されている7743番カットのタンブラーシリーズです。


1907年のカタログの初めのジュドルグのページに掲載されているアメリカンタイプのタンブラーの全10種類あるサイズの内5サイズを入荷しました。

珍しいシャンパンフルートもあります。




1907年のカタログの初めのジュドルグのページに掲載されている

アメリカンタイプのタンブラー



初入荷ですので入荷の範囲でサイズリストを作成しました。



サイズリスト


この写真のタンブラーのシリーズは1903年のカタログですでに確認ができ1917年のカタログでは4つのモデルに応用されています。


1903年のカタログ



この7743カットが施されたタンブラーの形状は二種あり、比較的寸胴なボヘミア型とテーパーが付いたアメリカ型。

1917年のカタログでは4つのモデルのうち3モデルがアメリカ型になっています。


1917年のカタログ I


1917年のカタログ II


20世紀初頭といえば、アメリカの経済ブームだった時代。アメリカ市場輸出を意識した商品だったのかもしれません。



<名前の由来>


この7743番カットのタンブラーシリーズは一般的にショニー (CHAUNY)と呼ばれていますが、手持ちの資料ではその名称では未確認で、それが正式名称なのか、それともリシュリューやアルハンブラなどと同様いわゆる「呼び名」なのかは不明です。

もし資料をお持ちでご存じ方がいらしたらご教授いただければ幸甚です。



多分「通称」のショニー (CHAUNY)という名前ですが、同名の町に由来していると推察します。

ショニー (CHAUNY)は、パリの北北東約100kmあたりのベルギー国境に近い町で人口は現在11500人程度の小さな町ですが、5 世紀以前はガリア起源の城塞があり、ヴァンダル族 (407 年) とフン族 (451 年) の侵略の際、人々の避難所となっていたと言われています。


ショニー位置


この古代の城塞はその後修道院になったという説もありますが、いずれにしても1430 年に破壊され、その残骸は城の周囲の壁を強化するために使用されました。


この地域で激化した数々の戦争の間、この町は1411年にブルゴーニュ人、1418年にイギリス人、1430年に王室軍、1471年にブルゴーニュ公、1478年にオーストリアのマクシミリアンによって 、1552年にカルビン主義者によって、1652年にスペイン人によって、と征服される歴史を繰り返します。


この町はアンシャン レジーム下で多くの機関の所在地であり、革命の間は第一審裁判所でした。

1790 年に地区の首都となり、1800 年まで続きます。


1814年2月26日には、第6次対仏大同盟によるフランス侵攻中の、ロシアのガイスマル大佐が指揮するプロイセン、ザクセン、コサックの騎士800名の分遣隊が市内に入った際、サンゴバン社の従業員たちは、パトロールをしていたときに騎士たちに発砲し、そのうちの3人を殺害。また群衆に突撃し、12人を殺害するという事件が起こります。その後、ロシア人は工場を略奪し、街を焼き払うと脅して10万フランの賠償を要求したため 市長、ド・モリー・ド・ヌフリュー氏と2人の市議会議員は、金額が支払われるまで人質になることを申し出る。 市と会社はなんとか金額の4分の3を支払い、ロシア側は容疑者5人を鞭で打って市長を連れて撤退するという事件が起こります。


板ガラスメーカー サンゴバン工場風景 (1858年頃)Archives de Saint Gobain

https://archives.saint-gobain.com/ressource/xixe/1858/1858-saint-gobain-affirme-sa-vocation-internationale




ショニーは産業革命中に繁栄しましたが、第1次世界大戦中ドイツ軍によって完全に破壊されたため、917年に連合軍機により解放された時には駅も市も廃墟の山に過ぎなかったと言います。

現存の都市の記念碑はすべて第一次世界大戦後に作られたものです。


第1次世界大戦で破壊された1917年のショニー水彩画





第1次世界大戦後の復興した1930年頃のショニーの風景



第2次世界大戦中にはナチスドイツ軍の化学工場があったため爆撃を受け、1944年9月2日にアメリカ軍により解放されます。




現在のショニー市庁舎