2019年11月1日金曜日

アンティーク バカラ ラファイエット BACCARAT LAFAYETTE


1900 年のリリースで比較的最近まで製造されていたラファイエット LAFAYETTE
花のように 上部のやや開いたとてもエレガントなモデルです。前から欲しかったのですがなかなか入手できず今回初めてワイングラス、ポートワイングラス、リキュールグラスの3サイズを入手しました。





名前の由来


一語でLAFAYETTEというと、La Fayette家の人々を指す他、特に重要でこのモデルは中でも有名なラファイエット侯爵マリー=ジョゼ フ・ポール・イヴ・ロシュ・ジルベー ル・デュ・モティエ (Marie- Joseph Paul Yves Roch Gilbert du Motier, Marquis de La Fayette1757年日 - 1834 )アメリカフランスでの人気から、彼の名を取り一語にしたLAFAYETTEという形で両国の多くの場所で地名になっています。

このシリーズはリリース年が1900年で、女流作家セヴィニエの名をとったモデルの翌年のリリースなので、私は長いことこのモデルは同じく女流作家のラファイエット夫人ことラ・ファイエット伯爵夫人マリー=マド レーヌ・ピオシュ・ド・ラ・ヴェルニュ (Marie-Madeleine Pioche de La Vergne, comtesse de La Fayette1634 - 1693) から名前を取ったのだと信じて疑いませんでしたが、個人的な思い込みとは別に、ここでは本来の由来の、自由と平等を理想としフランス人権宣言の起草とアメリカ独立戦争に大きく貢献したことで有名なラファイエット侯爵のことをご紹介します。


ラファイエット侯爵はフラン スの侯爵で、軍人の家系に生まれた軍人、政治家です。
祖先はジャンヌ・ダルクとともに戦ったり、十字軍に参加したり多くの著名な軍人を排出している格の高い貴族の家系です。ラファイエット侯爵もア メリカ独立革命とフランス革命の双方 における活躍によって「両大陸の英雄」と讃えられます。

生家

父は彼が2歳の時、七年戦争 で戦死し、本人も13歳入隊します。学生時代は特に市民は美徳と名誉の原則に従って自らを規制することによって独裁を避けたといわれる「共和政ローマ」に強く関心を持ち魅了されていたという記録が残っています。
1776年、アメリカ独立戦争が勃発 すると、周囲の反対を押し切って 義勇兵としてアメリカへ渡りジョージ・ワシントンのスタッフになり各地の戦闘で活躍します。ジョージ・ワシントンは幼い時に父親をなくしたラファイエットにとって生涯父親のような存在であったと言われていて、自分の息子にもジョージ・ワシントンという名をつけています。
 1779年からのアメリカへの二度目の渡航ではl'American Philosophical Society の初の外国人メンバーになるという栄誉が与えられ、1789年にはアメリカ国籍も獲得します。
フランス帰国後ラファイエットは1789 三部会の第2身分(貴族)代表として選出されますが、アメリカ独立戦争(1775 - 1783)を戦った彼は、フランスの絶対王政を立憲君主制に変革すべ きだという考えを持ち、第2身分でありながら第3身分の側に立って議会政治の実現に向け て行動します。ラファイエットは、 714日のバスティーユ襲撃 の翌日に新設された国民衛兵の 総司令官に任命されるとともに、フランス人権宣言、いわゆる市民権のデクレーション」(Déclaration des Droits de l'Homme et du Citoyen )の起草に着手します。

市民権のデクレーション
この「市民権のデクレーション」は大半をタレーランが「編集した」と「タレーラン」の項目で書きましたが、「草稿の執筆」はラファイエットによるもので、「第1条で「人は、自由かつ権利において平等なものとして出生し、かつ生存す る」という人間平等を、第2条で天賦の人権、第3条で人民主権、第11条で思想の自由・言論 の自由、第17条で所有権の不可侵をうたう人権宣言は国民議会で採択され、フランスのみに限らず近代民主主義発展史上に極めて重要なものとなり、その後世界各国の憲法に影響を与えるに至ります。
その後革命の動乱期パリ市長とともに市の治安維持に尽力しそれなりの成果も得ますが、1791年のシャン・ド・マルスの虐殺で貴族制を廃止を要求する市民に発砲し約50人の犠牲者を出した後急速に失墜。オーストリアプロセイン戦争では司令官に復帰したものの、王権停止後は捕虜扱いで獄中とはいえ、途中からは妻や娘と共に一時的にオーストリアに亡命、滞在します。

シャン・ド・マルスの虐殺

1799年ナポレオンが政権を取ったのち帰国し隠退します。隠退は読書と農業を愛したと言います。引退後はパリの住居もお城も独立戦争の英雄を訪ねてくるアメリカ人には門戸が開かれていたと言います。晩年1824年からアメリカに国賓として15ヶ月滞在し各地で歓迎されます。


「一見まるで裸でいるように質素だが、必要なものがすべて必要なところにある。」とテーラーが描写したラファイエットの城のラファイエット寝室。

シャルル十世の時代に議会は国を共和制にして大統領をラファイエットする案を可決しますが、憲法違反のため実現はされませんでした。
自由と平等の理想主義の元に黒人奴隷解放にも積極的に活動しアメリカとフランスで「両大陸の英雄」と言われた生涯を1834年にパリで閉じます。
ラファイエットの名はアメリカフランスでの人気から、彼の名を取り一語にしたLAFAYETTEという形で両国の多くの場所で地名になっています。


ラファイエットが愛した自宅の図書室、建築家の仕事に自ら干渉しながら設計させたといいます。彼が愛した農場が見渡せたと言います。