2015年5月16日土曜日

アンティークバカラ アルジャンティーナ BACCARAT ARGENTINE


バカラのアール・デコ期の代表的デザイナー ジョルジュ・シュバリエのデザインによるアール・デコらしい夢想的な絵柄が人気のグラスです。1960年代初頭まで製造されていました。

日本やアメリカでも人気の高い商品であるせいか、本場フランス、ヨーロッパでは数年前と比較しても最近売りに出る事がめっきり減りました。どんどん希少になって行っていると思います。

名前の由来
アルジャンティーナというのは言うまでもなくフランス語で南米の国アルゼンチンの事ですが、何故この楽しく可愛らしいデコレーションのこシリーズのネーミングに使われているのだろう、と不思議に思ったのは私だけではないでしょう。そこで、このモデルがデザインされた当時のアルゼンチンはどんな様子だったのか少し調べてみました。ご興味のある方は文末をご覧下さい。
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©Galleria Kajorica


バカラのアール・デコ期の代表的デザイナー ジョルジュ・シュバリエのデザインによるアール・デコらしい夢想的な絵柄が人気のグラスです。1960年代初頭まで製造されていました。

日本やアメリカでも人気の高い商品であるせいか、本場フランス、ヨーロッパでは数年前と比較しても最近売りに出る事がめっきり減りました。どんどん希少になって行っていると思います。


©Galleria Kajorica

アンティークバカラ  アルジャンティーナ シャンパンクープ


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Librería El Ateneo Grand Splendid, Buenos Aires, Argentina
1919年に建設された Grand Splendid 劇場が本屋に変身し2010年にオープンしたもの(ブエノスアイレス)

アルジャンティーナとはフランス語で南米の国アルゼンチンの事ですが、何故このモデルのネーミングに使われているのだろうと不思議に思ったのは私だけではないでしょう。ではこのモデルがデザインされた時期のアルゼンチンはどんな状況だったのでしょうか。

16世紀からスペインの植民地だった南米の国アルゼンチンは自由貿易を求めるイギリス軍の援助で、1810年5月革命でブエノスアイレスの自治宣言に至り、その後20年以上続いた独立戦争、ロサスの独裁期などを経てブエノスアイレス国がアルゼンチン連合を合併して国家統一が達成されたのは1861年。 

勝利した元ブエノスアイレス国知事ミトレら自由主義者が完全な主導権を握ることになり、国家の西欧化のためにヨーロッパから移民が大量に導入されることが決定し、夏冬反対とはいえ気候的にヨーロッパに似ていることもあり多くのヨーロッパ人が移住しました。

更に1868年に大統領に就任した自由主義者のサルミエント政権は、より自由主義的な経済政策や教育政策を成功に導き、ヨーロッパに倣った経済や社会の近代化が進んだのです。

1880年に正式にブエノスアイレスが国家の首都と定められ、外国資本と移民の流入が一気に加速し、農牧業を中心としたモノカルチャーによる奇跡と呼ばれるほどの経済発展も進んだといいます。こうしてヨーロッパからの大量の移民がブエノスアイレスになだれ込むと、それまではスペイン的な巨大な田舎町に過ぎなかったブエノスアイレス市は、一挙に国際的な大都市となり当時は「南米のパリ」とまで呼ばれたといいます。
1914年には実に国民の約30%が外国出身者だったとか。

また、この時期に生まれた中間層を基盤に、寡頭支配層の大地主の不正政治を改めて政治の民主化を求める声も強まり、1916年の選挙では急進党から選出されたイポリト・イリゴージェン大統領の民主化の進展によって政治も経済も安定に入り、1929年には世界第五位の富裕国となっとなったのだそうです。

その繁栄もその後の世界恐慌がアルゼンチンのモノカルチャー経済を襲い、政治経済ともに急速に不安定化したそうですが、想像するに1920年代のヨーロッパ人にとってアルゼンチンは遠い南米大陸の夢と希望の土地だったのではないでしょうか。

そう考えると、このシリーズのこの雰囲気、納得がいきますね。


ブエノスアイレス Car Costa 邸 1920年頃 
ローマやマドリッドに建っていても不思議のない様式の建物。


1920年初頭の新しい ブエノスアイレス 交通手段 
Colectivos。乗り合いのミニバス(タクシー?)