ロングステムのフラットカットで独特の品格のあるマルメゾン。1910年のリリースで最近まで継続していました。
バカラ のフラットカットのモデルとしてはアルクール、タレーラン(日本では通称タリランド)に並ぶ代表的でタイムレスなモデルです。アルクールはちょっと大げさすぎるけどタレーランよりはフォーマルなグラスが良いとお考えの方、フラットカット大好きな方にオススメです。
名前の由来
マルメゾン(Malmaison)といえば、ナポレオンの妻ジョセフィーヌことジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ (Joséphine de Beauharnais、1763年- 1814年) が、1799年ナポレオンのエジプト遠征中にしてしまったお買い物、マルメゾン城のこと。戦争で遠征中の夫の戦果をあてにして買ってしまった、とんでもない高額のお買い物。
写真:https://www.rueil-tourisme.com/en/groups/outdoor-actvities/botanical-walkより
ナポレオンの最初の妻ジョセフィーヌはフランス領西インド諸島マルティニーク 島 の生まれの貴族出身。 レカミエ夫人(レカミエ夫人に関してはこちらを)などとともにパリの社交界花形でナポレオンに見初められ結婚しますが、初めはどちらかというとナポレオンの片思に彼女が付き合っていたようで、彼女は浮気を続けていたと言います。
と呼ばれた貴族出身ジョセフィーヌ (フランソワ•ジェラール画)
しかもジョセフィーヌがこのお城購入したエジプト遠征中、彼女は美男で有名なイッポリト・シャルルと浮気をしていて、その事がナポレオンの耳見に届き、嘆きを書き綴った手紙を載せたフランス 艦がイギリスに拿捕され、手紙の内容が新聞に掲載され大恥をかいたとか。。。その時ナポ レオンは離婚を決意し たけれどジョセフィーヌの連れ子たちの嘆願で一件落着。そこで離婚されていたらマルメゾン城はこんなに有名にはならなかったでしょう。
本当の年齢ではナポレオンの6歳年上で、結婚時のナポレオンは26歳で、ジョゼフィーヌは32歳だったが夫は2歳年上に、妻は4歳年下にさばをよみ、同い年の28歳として結婚証明書を提出したとか。相次ぐ浮気や浪費癖、お姑さんとの険悪な関係にも関わらず、飾らない朗らかな人柄で将兵たちや国民の人気も高かったといいます。
確かにナポレオンの肖像画はどれも威風堂々としていて英雄的オーラがありますが美男かとよく見ると決してそうではないないのに比べ、このイッポリト・シャルルはいかにも女性が好きそうな甘いマスクですね。
なんだか内容が二世紀前の女性週刊誌っぽい方向に流れ失礼。ナポレオンとジョセフィーヌの関係はナポレオンとがジョセフィーヌにぞっこんだった時はジョセフィーヌは無骨な彼に対して冷めていて、ナポレオンが冷め始めた頃にジョセフィーヌがナポレオンを熱愛するようになったと言います。よくあるパターンですよね。
その後二人は離婚しナポレオンはナポレオンが皇帝にふさわしい家柄の妻をとオーストリア皇帝フランツ1世の娘マリア・ルイーザと結婚しますが、ナポレオンの黄金期はジョセフィーヌが妻であったため、ナポレオンのカップルの肖像画の大半はナポレオンとジョセフィーヌのものです。
マルメゾンという名称の語源はよくわかっていませんが、マルメゾンとは「悪しき家」という意味で、一般的には中世において山賊やノルマン人の侵入をしばしば経験したことがその名の由来というのが一番信憑性のある説のようです。その後徐々に手を加えられ、18世紀の間には簡素で際立つ特色のない小さな城となっていたところをジョゼフィーヌが購入しました。その後、エジプトから帰国したナポレオンが二人の建築家を使い大規模改装。しばしばマルメゾン城はフランス史に登場ります。パリ中心部から西13キロに位置する森と牧草地からなる約0.61平方キロメートルの荒れた地所なのに購入額は30万フランをはるかに超え、大規模な修繕の必要もあったそうですが、修復を終えた城館はテュイルリー宮殿とと もに執政政府時代の政府要衝となります。
マルメゾン城のイギリス式庭園
https://www.thecultureconcept.comより
1809年にナポレオンは、妹のカロリーヌから紹介されたエレオノール・ドニュエルやポーランドの愛人マリア・ヴァレフスカとの間に男児が生まれた事などもあり、嫡子が生まれないことを理由にジョゼフィーヌを離縁。ジョゼフィーヌは年500万フランの年金などと共にマルメゾン城を自らの所有とし、以降はジョゼフィーヌはこの城を居館としてロシア皇帝を迎えるなどして過ごし、1814年5月29日この地で没します。死ぬまで「ナヴァール女公皇后殿下」という「皇后」の称号を保持することを許され、マルメゾン城のナポレオン居室は、皇帝が去ったままの状態でジョゼフィーヌの手によって保たれ、彼女はこの部屋のものを「聖遺物」と称したといいます。離婚後もナポレオンとはよき話相手であり、後妻が嫉妬するほどだったとのこと。
ナポレオンがエルバ島に流された後、多くの者がナポレオンを見限った中、最も親身に援助していたのはジョゼフィーヌで、ナポレオンが臨終する際の最期の一語が彼女の名だったそうです。
https://www.thecultureconcept.comより
ジョゼフィーヌは、この土地を「ヨーロッパで最も美しく興味深い庭園、よき洗練のモデル」とすることに力を尽くし、世界各地の珍しい外来動物など様々な動植物を熱心に収集しました。ジョゼフィーヌは「マルメゾンが近い将来全フランスの豊かさの源となることを願っています」とも書いています。
パイナップルオレンジなどパリの気候には合わない植物は栽培温室を建設、1803年から1814年に没するまでの間に、ジョゼフィーヌはほぼ200種の新しい植物をフランスで初めて栽培したのは、南国生まれの彼女のノスタルジーだったのかもしれませんが、特にマルメゾンのバラ園の評価は高く、お抱えのベルギー人画家に描かせた庭園の250種にのぼるバラやユリの博物画集『マルメゾンの庭園』は非常な好評を博し、現在でも販売されています。
(Jardin de la Malmaison・1803年)の1ページ
「マルメゾンのスーヴェニール」と言う名のつく、1834年フランス人バラ栽培家ジャン・ベルーズ(Jean Béluze)により開発された薔薇。10cmに及花びらのぎっしり詰まったぶ大輪バラで香り高く「美の女王」「フラグランス」という別名も持ちます。
https://www.thecultureconcept.comより
庭園に放たれた様々な鳥や動物も庭園を豊かなものにしていたといい、ジョゼフィー ヌがマルメゾンで過ごした最盛期には、 カンガルー、コクチョウ、シマウマ、 ヒツジ、ガゼル、ダチョウ、シャモア、アザラシ、レイヨウ、リャマといった 動物がいたのだそうです。 ジョゼフィーヌの没後、726ヘクタールの庭園の管理はボアルネ家と親しかっ た植物学者エティエンヌ・スランジュ=ボダンに引き継がれ、彼によって現在 見られるマルメゾン城周囲の庭園、プチト・マルメゾン庭園、およびボワ=プ レオ城庭園が整えられた。
建物は何度か所有者が変わった後、1896年モロッコ系富豪ダニエル・イッフラが修復し後に彼のナポレオン関連のコレクションとともに政府に譲渡され現在では国立博物館担っています。
ナポレオンは1815年のワーテルローの戦いで敗北した後、セントヘレナ島へ追放、幽閉されるまでの間にジョセフィーヌ没翌年のマルメゾン城に一時期滞在しています。最後の敗戦で追放前のナポレオンが、まだジョセフィーヌの丹精込めて育てた花が咲き乱れていたでしょうし、ジョセフィーヌが最後まで保ったナポレオンの部屋もそのままだったであろうこの城にどのような気持ちで滞在したかと思うと胸が熱くなります。
マルメゾンはフランス国民に深く親しまれ有名であることから、バカラはグラスシリーズだけでなく、フラットカットのトワレ・ボトル シリーズにもマルメゾンという名をつけていますし、クリストフル もマルメゾンという名のカトラリーシリーズを出しています。
バカラ 製トワレ・ボトル シリーズにもマルメゾン
Photo©Patrick-SchÅttler
ドレッサー左端ににマルメゾンのボトルが。