2015年12月22日火曜日

アンティークバカラ セビーヌ(セヴィニェ) BACCARAT SEVIGNE

2020年1月17日更新

写真の金彩入りがレカミエ、金彩なしがセビーヌ(セヴィニェ)
同形状同エッチングでもモデルで金彩ありとなしでモデル名が異なります。





1907年カタログ掲載の一般的なセビーヌのテーブルウエア
食事用の水のサーブは ピッチャーではなくデキャンタに取手のついたものが主流です。





Photo©Galleria Kajorica



名前の由来

セビーヌ(Sevigne セヴィニェ)はフランスの侯爵家ですが、フランスでセヴィニと言ったらルイ14世時代に活躍した文筆家セヴィニエ侯爵夫人マリー・ド・ラビュタン=シャンタル・デ・セヴィニェ (Marie de Rabutin-Chantal, marquise de Sévigné、1626年2月5日 - 1696年4月17日) のことをさすと言って良いでしょう。



フランスでは中学校の教科書に用いられるほどメジャーでフランス人の身につけるべき基本の教養の一部になっています。特に機知に富んだ書簡が有名であるため、書簡作家ともいわれ ています。 彼女の書簡集は日本で言ったら清少納言の枕草子という感じでしょうか。(時代は異なりますが)


詳細はアイテム紹介の後をご覧下さい。

マリー・ド・ラビュタン=シャンタル・デ・セヴィニェ肖像画
夫人の知的で控えめな美しさとセビーヌシリーズのエッチングがしっくりきます。

後にセヴィニ夫人となるマリーはブルゴーニュの男爵家に生まれます。
1歳で父親を7歳で母親を亡くし母方の祖父母に引き取られます。が、その祖父も3年後に亡くなり、10歳で叔父夫婦に引き取られ、この叔父夫婦から一流の教育を受けて育ちます。

18歳でセヴィニ公爵に嫁ぎ当時Les Rochers(レ・ロシェ) というブルターニュのお城(今はChâteau des Rochers-Sévignレ・ロシェ・セヴィニェ城éが通称)と当時貴族が好んで住んだパリのマレ地区に住居を構え、セヴィニ公爵との間に一女一男をもうけます。

でもあまり幸せな結婚生活ではなかったようで、夫は借金を作ったあげく彼女が25歳の時愛人をめぐる決闘で負った傷で死亡し、マリーはその後どんなに男性から熱く求愛されても再婚しようとはしなかったといいます。

Photo©Fanchonline
マリーがこよなく愛したレ・ロシェ•セヴィニエ城

彼女を10歳で引き取った叔父夫婦はマリーが未亡人になった後も財産管理など何かと彼女の世話を続けたようで書簡の中にも“le Bien Bon”という愛称でしばしば登場します。

未亡人になったマリーはパリとレ・ロシェを行き来しながらも、パリに滞在中はオテル・ド・ランブイエなどを中心とする当時の最高峰の文人、インテリの出入りするサロンに通うようになります。

非常に教養があり類稀な会話のセンスとユーモアを持ち合わせたマリーは、ラ・ロシュフコー,ラファイエット夫人等ひろく当代の名士文人と交遊を広げます。

長女のフランソワ―ズ・マルグリ―トは絶世の美女と言われルイ14世からも妾にしたいと申し込みがあった程でしたが、オテル・ド・ランブイエのインテリ人脈のなかから再々婚のグリニョン伯爵と1669年に結婚します。


マリーの愛娘フランソワーズ・マルグリート・デ・サヴィニェ


フランソワーズ・マルグリートが夫グリニョン伯爵の任務上の理由で1671年にプロヴァンスに引っ越してしまった2日後にマリーは最初の娘宛手紙を書きます。以降約25年間、週に34通の手紙を娘宛に送るようになります。

幼い頃から近しい人達と次々と死別して来たマリーの娘に注いだ愛情は計り知れぬ程で、特にこの娘宛ての手紙は、もともと筆まめだったとはいえそれまでの主に実務的な内容の文章とは大きく異なり文学的な要素が高まり、彼女自身も娘宛の手紙を通して書くことを天職と考えるようになったといわれてます。

誰が流布し始めたかは不明ですが1673年ごろからマリーの書簡の複写が公に出回り回覧されるようになったのを黙認し、その後は多くの人に読まれることを意識して書く様になのだそうです。

1677年以降はパリのHôtel Carnavaletカルナヴァレ邸宅、現在のカルナヴァレ博物館)を借りて居を落ち着けそこで生涯を過ごし、1696年娘の看病に出向いたグリニョン城にて病んで他界します。

Photo©Ludovic Péron
マリーことマダム・デ・セヴィニェが最後の20年を過ごしたHôtel Carnavalet 
カルナヴァレ邸宅、現在のカルナヴァレ博物館)

マリーの手紙はルイ14世統治当時の社交界の人びとや文化人の肖像が描かれ、娘に対する普遍的な母性愛がつずられ、その文体は古典的香りが高く、文章の自然さ、率直さ、表現の的確さ、繊細さ、自由さ で知られています。


出版という形では初めて 1734 年に書簡集が発行され、以降フランスで長く愛読されています。

国外でフランス国内程の知名度がないのは、マリーの書いたフランス語のクオリティーには他国語に翻訳しえない部分が多いからではないかと私は想像しています。

日本語訳や英語訳よりは原文の雰囲気が伝わってくるだろうと一部イタリア語で読んでみましたが、とても軽やかで美しい文体で、そのまま拝借したくなる様な素敵な言い回しがあちこちに散りばめられています。


日本語訳は
『セヴィニェ夫人手紙抄』井上究一郎・翻訳、岩波文庫、1987年版、ISBN 4003256816 
『セヴィニェ夫人の手紙』吉田郁子・翻訳、大学書林 1995年、ISBN 4475022657
が出版されています。ご興味のある方はどうぞ。


Photo©Finoskov
娘の嫁ぎ先でマリーが息を引き取ったグリニョン城 

2015年11月28日土曜日

アンティーク バカラ リド BACCARAT LIDO

©Galleria Kajorica

在庫状況や個々のコンディションはオークションページをご覧下さい。

コーン形状にアチッドエッチングのデコレーションでアールデコをそのまま絵に書いた様なデザインです。1930年頃リリースだといいます。
有名なモデルなのであえて色々説明する必要はないかもしれません。
ジオメトリックな形ですがとても持ち易いグラスです。

有名なモデルなので前から知っていましたが、この度初めて入手しました。現物をもってみると、写真から想像したよりもクオリティーを感じます。



名前の由来
パリのシャンゼリゼにリド(LIDO)という世界的に有名なキャバレーがあるのでつい短絡的に結びつけてしまいそうですが、キャバレーの名は第二次世界大戦後の再オープンの際に改名され「リド」となったもの。ベルエポックから有名だった同店の前身の店の名前はLa Plage de Paris(ラ・プラージュ・デ・パリ)でした。このシリーズが1930年代リリースであることを考えると、リリース時に有名なキャバレーはリドという名で存在していなかったことになり、直接関係はないと考えた方が良いでしょう。

La Plage de Paris(ラ・プラージュ・デ・パリ)はパリのビーチの意で、因に今 ラ・プラージュ・デ・パリ というとセーヌ川沿いの日光浴のできるビーチを指します。)

キャバレーのリドの名はLido di Venezia (リド・ディ・ヴェネツィア)つまりイタリア、ヴェネツィアのリド島の海岸からインスピレーションを受けて命名したと言われていますが、バカラのこのシリーズも当時流行のリゾート地だったヴェネツィアのリドの名を取ったと考えるのが適切だと思います。




詳細はアイテム紹介の後をご覧下さい。

©Galleria Kajorica




©Galleria Kajorica


Lido (リド)とはイタリア語で海岸の意味ですが、ヴェネツィアにはリド島という島がありベネツィア本島冲に本島を守る天然の防波堤の様に11kmと細長く横たわっています。広いビーチと島中心部に立ち並ぶ優雅な高級ホテルで 有名なリゾート地でした。
 戦後は近隣の海岸の工業化が進み海水の質が落ちリゾート地としての評価は昔程ではなくなりましたが、未だに往年の高級リゾート地独特の良い雰囲気を残しています。

私もビエンナーレ等でヴェネツィアに行くときは観光客でごった返すヴェネツィア島よりもリド島に滞在するのが好きです。夏ならば1、2泊でも贅沢なバカンス気分になれます。


Google map satelite で見るリド島


また30年代のリド島では現在も有名なヴェネツィア映画祭が始まりました。1932年から数ある高級ホテルの一つ Hotel Excelsiorのテラスでに行われ、その後のフェスティバル成功と拡大で専用の建設物Palazzo del Cinema(パラッツォ・デル・チネマ)が1937-38年に建設されたり、30年代前半にはプライベートの小型飛行機が発着出来る空港がオープンしたりと時代のVIPを引き付けるのに十分魅力的なリゾート地だったのでしょう。


1928年夏の観光シーズン(4-10月)のリドの広告
バカラのグラスの「リド」がとても似合う雰囲気です。




1925年(左)1930年(右)のリドの観光広告。
たった5年ですが流行の変化が手にとる様にわかります。



リド島はそれ以前も有名で、1912年に発表されたトーマス・マンの小説「ヴェニスに死す」もこのリド島が舞台で、詩人バイロンや作曲家マーラーも好んで滞在したと言われています。

このリンクと画像はルッキーノ・ヴィスコンティ監督のトーマス・マン原作「ヴェニスに死す」の日本語版トレーラー。 1971年発表の映画ですが二十世紀初頭のリド島の雰囲気が再現されています。前述の広告よりも20年くらい前の時代考証ですが既にヨーロッパの各地から貴族やインテリの集まる高級リゾートでした。



「ヴェニスに死す」の舞台になったHotel des Bainsアールデコ期のポスタ―

因にトーマス・マンの小説の日本語版ではホテル名が「海水浴ホテル」と意訳されていて。。。
確かに意味的には正しいですがイタリア人にとっても「des Bains」は外国語(フランス語)の固有名詞なのだから意味で訳さず音で「デ・バン・ホテル」または「ホテル デ・バン」と訳して欲しかったです。


Hotel des Bains の現在の姿 


サウンドトラックに使われているグスタフ・マーラー のアダジェット (交響曲第5番、第4楽章)も素敵で、この映画を見てマーラーのファンになった人も少なくないのではないでしょうか。

全楽章お聞きになりたい方はこちらのリンクがお薦め
カラヤン指揮のベルリン・フィルの演奏のものが有名ですが、個人的な趣味でまたアバド指揮のドラマチック演奏のビデオを選びました。

アンティーク バカラ ゴルフ・ジュアン BACCARAT GOLFE JUAN





©Galleria Kajorica


オリーブの枝や葉をモチーフにしたエッチングが上品な『ゴルフ・ジュアン』は、ジョルジュ・シュヴァリエのデザインといわれていて、売りに出る事も少なく、希少なモデルに区分していいと思います。グラスの形状もオリジナルで、穏やかな優雅さ、とでも表現したいモデルです。

同じパターンの装飾でグラスの形状は口が翻って広がっていてステムはリブの物と、口が広がらずに立ち上がっていて球形のステムの物と2種類あるようです。


©Galleria Kajorica






©Galleria Kajorica



名前の由来
ゴルフ・ジュアン(Golfe Juan)は、フランス語でジュアン湾の意味ですが、映画祭で有名なカンヌとアンティーブの間にある町の名前でもあり、この土地に由来していると言って良いでしょう。



勝手な想像ですが装飾パターンのモチーフになっているオリーブから地中海、地中海からフランスらしくコート・ダジュールの町の名と連想されたと考えるのが自然に思えます。

静かなヨットハーバーで、映画祭で有名なカンヌとアンティーブの間にある町ゴルフ・ジュアン。鉄道駅名は ゴルフ・ジュアン―ヴァロリス(Golfe Juan- Vallauris) で北に2kmの内陸部の陶器の産地ヴァロリスと駅を共有します。カンヌからは東に電車で5分、モナコ公国からは西に各駅停車で約1時間の距離と言ったら判り易いでしょうか?

Photo ©Galleria Kajorica
ヨットの並ぶ現在のゴルフ・ジュアン 2015年夏撮影


バカラのネーミングは歴史に絡んでひとひねりあるものが多いですが 、ゴルフ・ジュアンも例に漏れず、単なるコート・ダジュールの町という訳ではありません。

1814年の戦争で敗れイタリアのエルバ島に流刑されていたナポレオンがパリに戻って復位を成し遂げる際に1815年3月1日エルバ島からここに上陸したことでつとに有名です。

たったの95日間だけでしたがヨーロッパの君主達を震え上がらせた有名な百日天下とウォータールーの戦いの年の早春です。

ゴルフ・ジュアンでは2015年の2月から3月にかけてナポレオンの上陸200周年を記念して当時の状況を再現するイヴェントがありました。



http://www.alibionline.it/grey-carpet-per-lo-sbarco-di-napoleone-a-golfe-juan/ より
Photo ©Enrico Giudicianni


ナポレオン

因にナポレオンがパリに向かうのにたどった道で、ここからグルノーブルまでの国道85番の325kmは1932年に開通しルート・ナポレオン( Route Napoleon)と呼ばれています。
とりわけバレム (Barrème )までの111 Kmはパノラマルートとしてはバイク等で走るのに世界で最も美しい道の一つと言われています。南仏でツーリングの予定のある方は是非お試し下さい。

Photo ©Galleria Kajorica

ゴルフ・ジュアンの看板
「ここからナポオレオン・ルートが始まる」
この表示が無ければ見落とす様な細い道です




ルート・ナポレオンのヴェルドンの絶景
道から湖まで365mの標高差を見下ろす
ロック クライミングをする人にも人気です。
普通と逆で降りてから登らなければいけないので大変とか。。


因にゴルフ・ジュアンの北2kmに位置する陶器の産地ヴァロリスは現代美術の巨匠パブロ・ピカソが1948-1952までの4年間滞在し、おおよそ千点にのぼる陶器の作品を制作した事で有名で、現在も隔年で陶芸ビエンナーレが開催されています。
ヴァロリスのピカソ美術館はアンティーブのピカソ美術館と併せてお薦め。
両方訪ねましたが、アンティーブの滞在は数ヶ月だったため勢いのある直感的な作品が多く、ヴァロリス制作の作品はじっくりと制作したことがわかります。
生憎館内は撮影禁止でした。






アンティークバカラ スカルラッティ BACCARAT SCARLATTI





アンティークのバカラのモデルの中でも最も人気のあるモデルの一つと言えるルリ(LULLI)シリーズのロングステムヴァージョン。
カップ部は同型同パターンですがスカルラッティ(SCARLATTI)という別の名前がついています。

非常に珍しく、今回初めて入手しました。

ルリと同様、優雅なアシッド・エッチングが施されていて、ロングステムなので現代的な使い方が出来ます。

1933年のカタログに掲載されているルリとスカルラッティ

名前の由来

モデルの名になっているドメニコ・スカルラッティ(Domenico Scarlatti 1685-1757) はイタリア、当時のナポリ王国出身の作曲家でチェンバロ奏者。J.S.バッハ、ヘンデルと同年生まれです。
アレッサンドロ・スカルラッティ(1660-1725)は父親でやはり作曲家ですが、ショートステムのモデルの名前の由来するジョヴァンニ=バッティスタ・ルッリとドメニコ・スカルラッティの間にはイタリア生まれで外国の宮廷音楽家だったという共通点があることから、バカラ製品のモデル名はドメニコ・スカルラッティに由来しているのだと考えるのが適切でしょう。
詳細はアイテム紹介の後に続きます。


©Galleria Kajorica




ドメニコ・スカルラッティ

ドメニコ・スカルラッティは16歳の時にナポリ王のチャペルのオルガン演奏者に抜擢され、18歳でオペラで劇場デビューを果たすなど、極若い頃からその才能の頭角を現します。
ヴェネツィアに留学した後(当時ナポリとヴェネツィアは別の国)1709年にローマに赴き、オットボーニ枢機卿からチェンバロの力量はヘンデルより上とのお墨付きを貰います。但しオルガンの力量はヘンデルの方が上と判断されたとのことですが。

1719年に当時8歳のポルトガル王女 マリア・マグダレナ・バルバラ(マリア・マグダレナ・バルバラ・ハビエル・レオノール・テレサ・アントニア・ホセファ・デ・ブラガンサ、María Magdalena Bárbara Xavier Leonor Teresa Antonia Josefa de Bragança, 1711- 1758)通称バルバラ・デ・ブラガンサ の音楽教師として1727年王女がスペイン王家に嫁ぐまでポルトガルに滞在します。

その後一旦ローマに戻り結婚し、スペインのセビリアに移住。

六年後の1733年にフェルナンド6世が即位しバルバラ・デ・ブラガンサが王妃になると、スカルラッティはスペイン王室付きの音楽家としてマドリッドに招待され、1757年に71歳で亡くなるまでの生涯をスペインで過ごします。


ポルトガル王女時代のバルバラ・デ・ブラガンサと10歳のスペイン王子フェルナンド


バルバラ・デ・ブラガンサは長く子宝に恵まれなかったポルトガル王の第一女として幼い頃から一流の教育を受けて大切に育てられますが、美しい女性ではなく、スペインとポルトガルの関係を安定させるための政略結婚で嫁いだ二歳年下のスペイン王子フェルナンドは初対面の際に非常に戸惑ったというエピソードが残っています。

でも共通する音楽への情熱のおかげで間もなく二人は深く愛し合うようになり、跡取りに恵まれなかったにも関わらず生涯仲の良い夫婦だったと言われています。

生演奏以外に音楽を聴く方法がなかった時代。バルバラの容姿にがっかりした音楽好きのフェルナンド王子が、美しいスカルラッティの創作曲を奏でるバルバラに魅了されていく様子を想像してしまいました。

バルバラにとってスカルラッティがいかに大切な存在であったか、王女時代の音楽教師を嫁ぎ先から呼び寄せるという当時としては異例の抜擢からも察することが出来ます。


王妃バルバラ・デ・ブラガンサとスペイン王フェルナンド6世

スカルラッティが他界した翌年の1758年にバルバラが47歳で病死した後、国王フェルナンド6世は悲嘆にくれてマドリッド郊外のVillaviciosa de Odón城に閉じこもり、食事も拒否するようになり、翌年妻の後を追う様に亡くなっています。

Villaviciosa de Odón城

作曲家としてのスカルラッティの活動ははオペラ、室内楽、オルガン曲、宗教音楽など多くの作曲を手がけましたが、特にチェンバロのための555曲にのぼるソナタは有名でポルトガルやスペインの音楽にも多くインスピレーションを得ています。

同時に鍵盤楽器の演奏を画期的に進歩させた功績も高く評価されていて、ショパン、ブラームス、バルトーク、ショスタコーヴィチなどのスカルラッティの音楽を愛した後世の作曲家に影響を与えたと言われています。


お薦めの音楽リンクは:
こちらはスカルラッティのお味見程度 ピアノによる演奏です。
Domenico Scarlatti: Sonata in Si minore K 27

チェンバロ 有名なソナタK239 Fandango 
スペインの舞踏曲からインスピレーションを得ています。
D.Scarlatti - Fandango

チェンバロ 初期のソナタ K1-K19 
Domenico Scarlatti Harpsichord Sonatas K1 - K19, Scott Ross 01

チェンバロ 最後期のソナタ K540-K555

こちらはピアノ演奏。一時間と長いですがお薦めです。
Domenico Scarlatti - Sonatas Ivo Pogorelić