2024年7月11日木曜日

ヴィンテージ バカラ ジェノバ BACCARAT GENOVA


シンプルなカットと上品なプロポーションのこのシリーズ、ジェノバという名前です。


カットがシンプルな分、色を被せたガラスがよく似合い、6色セットのグラスなどをよく見かけます。


リリースの年が不明で、タイムレスでコンテンポラリーな感じがするので、比較的新しい品だと思っていたのですが、今回初入荷した6客6色セットのリキュールグラスは古いタイプのバカラマーク付きです。


リキュールグラス



<名前の由来>


ジェノバとは、北イタリアの港町。


1483年頃のジェノバ


イタリア北西部に位置するジェノバは青銅器時代(元前30000-11000年)から人が住んでいたと言われています。


天然の良港と温暖な地中海性気候にに恵まれ、海運の要ともなり商業が発展し栄え、現在でも欧州屈指の港となっています。



現在のジェノバ


この地方の建物の特徴はファサードの装飾、他の地方ならレリーフで作るものを、平面にいかにもレリーフがあるかのように描いているのを多く見かけます。


当然レリーフで作るより相当なコストダウンにもなりますが、それはそれで非常に美しいのです。


自分で撮った写真がないので、リグーリアにお住いのカルラ・マルケッティさんのブログの写真を許可を得て使用させて頂くことにしました。


©Carla Marchetti

上下写真、まるで本物のレリーフのように上手く描かれた窓枠
ジェノバのあるリグーリア地方の特徴的な装飾です。


©Carla Marchetti


カルラ・マルケッティさんのブログのリンクを紹介します。


https://www.macalu.it/finestre/finestre.html






コロンブス


さて、ジェノバ出身の有名人というと、最初に頭に浮かぶのはやはりコロンブス。


一般的にアメリカ大陸を発見したと言われているコロンブス(ラテン語名、イタリア語ではコロンボ)もジェノバの出身です。とはいえアメリカ遠征航海は現在ポルトガルやスペインがスポンサーになっていて、更にコロンブス自身は西に西にと向かえばインドに着くと思っていて、アメリカの土着民をインディアン=インドの人たちと呼んだという話は、つとに有名です。



少しジェノバの話から脱線しますが、ちなみににアメリカ大陸はインドや極東ではなく全く異なる大陸だと定義し、証明したのはイタリア人(当時のフィレンツェ共和国)の地理学者アメリゴ・ヴェスプッチ。

1503年に論文『新世界』を発表し、アジア最南端(マレー半島、北緯1度)とアフリカ最南端(南緯34度)の緯度をはるかに南へ越えて続くため、当時の常識だったアジア・アフリカ・ヨーロッパからなる三大陸世界観大陸のどれにも属さない「新大陸」である。という説を唱え、その後実証されたため、アメリゴ・ヴェスプッチのラテン語名アメリクス・ウェスプキウスから名を取って、発見された新大陸は「アメリカ」大陸と名付けられました。



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ゴッフレド・マメーリ


他にジェノバ出身で有名な人と言うと、イタリア国外ではあまり知られいませんが、イタリアの詩人、愛国者であった。イタリアのリソルジメントの最も有名な人物の一人に数えられるゴッフレド・マメーリ・デイ・マンネッリ(通常はゴッフレド・マメーリと呼ばれる)。

現在も歌われているイタリア国家は「マメーリの讃歌」と言う歌で、歌詞をマメーリが書いています。


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もう一人個人的な思い入れで加えると、現在も活躍する建築家のレンツォ・ピアノ。

若い時にパリのポンピドゥセンターの設計でリチャード・ロジャーズと一緒にコンペで勝ち、一躍有名になったピアノ氏はジョノバとパリの両方に事務所を持ち世界中で活躍しています。

日本では関西国際空港の設計で知られていると思います。


地元ジェノバでは大規模で斬新な水族館、地下鉄、高架道路など都市の景観に大きく貢献しています。


単に手広く設計をしていると言うだけでなく、イタリア国内では大統領から任命された国会終身上院議員を務め、上院議員の報酬を利用して都市の郊外の問題のある地域の若手建築家達とともに社会貢献をするなどでも知られています。




レンツォ・ピアノ&リチャード・ロジャーズ設計

パリのポンピドゥセンター





レンツォ・ピアノ設計

関西新国際空港





レンツォ・ピアノ設計

ジェノヴァ・サン・ジョルジョ高架橋

突如倒壊したモランディ橋の代わりに急遽設計構築されたもの。


倒壊したモランディ橋の設計者は自分の名前をにつけましたが、レンツォ・ピアノはジェノバの象徴と言われる聖人の聖ジョルジョの名前を付けました。




聖ジョルジョはジェノバの守護神ではないのですが「象徴」と言われる聖人の聖ジョルジョ
十字軍の時代に、トルコ遠征でジェノバ軍を助けたと言われています。










2024年7月2日火曜日

ヴィンテージ バカラ ドン・ペリニヨン BACCARAT DOM PERIGNON



1961年リリースのこのドン・ペリニヨンはバカラの現代化の方向転換の象徴と言っても過言ではないモデルでしょう。

バカラはこのドン・ペリニヨンリリース翌年1962年に、1925年のミケランジェロリリース後35年年以上続いた、バカラ独特のアールデコスタイルのノーステム、ショートステムにアラベスクのデコレーションを施した製品をカタログから一掃し、コンテンポラリー志向にドラスティックに方向転換。

一つの時代が終わり新しい時代が始まります。

このシンプルで上品、脚とカップ部に継ぎ目のない成形は,リリース当時としては技術的にも革命的な製品だったといえます。

このドン・ペリニヨンシリーズは同じくバカラのシンプルなシリーズであるパーフェクションなどと比較しても極めてコンテンポラリーで美しいデザインです。


バカラの方向転換後のその他のモデルにはボリス・タバコフのデザインのグラスなど大変美しく個性的な作品もありますが、大半は個人的にはコレクションするほどではないかな、と思っています。コンテンポラリーデザインだとバカラでなくても沢山いいものがある、という意味で。

それでもこのドン・ペリニヨンは様々な角度から見て、非常に完成度の高いグラスであることは否めません。


今回、売りに出さずに持っていたドン・ペリニヨンのデキャンタを手放すにあたりサイズリストを作りましたので、同時にドン・ペリニヨンのページも作成することにしました。

グラス類は2013年に一度入荷したきりなので寸法はその時の採寸に基づき記載しています。(変わってはいないはず)当時は容量を測っていなかったので容量の記録はありません。




名前の由来

ドン・ペリニヨンというと誰でも最初に想像するのは高級で有名なドン・ペリニヨンというシャンパンの銘柄だと思います。

シャンパン、ドン・ペリニヨンのボトル


ではそのシャンパンの銘柄の名前はどこに由来しているのでしょうか?

ドン・ペリニヨンという銘柄名は、シャンパンを発明したとされるキリスト教カソリックのベネディクト会修道士ドン・ピエール・ペリニヨン(Dom Pierre Pérignon1638-1715)にちなんで名付けられています。


ドン・ピエール・ペリニヨン(Dom Pierre Pérignon1638-1715)


ドン・ペリニヨン修道士はフランス北東部のシャンパーニュ地方で生まれ、発泡ワインの一種、シャンパンの完成に生涯を捧げたと言われています。

ドン・ペリニヨンとして知られるピエール・ペリニヨンは、シャンパーニュ・アルデンヌ地方のサント・ムヌホールドで父親や叔父のブドウ畑で働き、ワインと密接に関わりながら育ちました。

司祭になった後、30歳でサン・ピエール・ドーヴィエのベネディクト会修道院の会計兼ブドウ畑の管理者に就任。ワインの販売によって自活していたサン・ピエール・ドーヴィエの修道院にとって、これは重要な任務でした。


現存するサン・ピエール・ドーヴィエの修道院

修道院としては西暦665年から1789年まで

現在ではシャンパンのドン・ペリニヨンも製造しているモエ・エ・シャンドン社の所有で

重要なクライアントのゲストハウスとしても利用されているとのこと。

ドン・ペリニヨンの貯蔵所も兼ねています。



ドン ペリニヨンがシャンパンを発明したという伝説には 2 つの異なる説があり、1 つ目は、エポックメイキンな発明にはよくある「偶然」だったというもの。ドン ペリニヨンは、白ワインのボトルを瓶詰めした後、その一部が爆発したため。そこで修道院長は、スパークリングワインを作る方法があることに気づき、二次発酵、つまり瓶内発酵後に二酸化炭素が発生するプロセスを発見したというもの。当時は突然瓶が爆発してガラスの破片が飛び込むのを恐れて、「悪魔のワイン」と呼ばれていました。

2番目の説では、偉大な実験家であるドン ペリニヨンが瓶詰めの白ワインに意図的に砂糖と花を加え、発酵後にどのようにして泡が発生するかを発見したとされています。

実際には、最新の研究で、ペリニヨンが誕生するずっと前からシャンパーニュ地方にスパークリングワインが存在していたことが証明されていて上記の二説はどちらも伝説ということになります。でも、確かなことは、ドン ペリニヨンの、この地域のブドウに関する深い知識のおかげで完成度を高め、シャンパンを世界で最も有名なスパークリングワインのならしめたことでしょう。

ピノ ノワール、シャルドネ、ピノ ムニエなど、シャンパーニュの製造に最も適したブドウの木を選択したと言われています。彼はまた、現在のコルク栓を導入し、製造方法の改良に努め、卓越した保管システム開発にも貢献しました。



ドン・ピエール・ペリニヨンが導入したと言われる現在も使われているコルク栓


ドン・ピエール・ペリニヨンのシャンパン製造方法は、彼のアドバイスに従って、今日でも彼の名前を冠したラベルだけでなく、世界中の最も重要なワイナリーすべてで生産されていて、北イタリアのスプマンテなども「シャンパン技法」「クラッシック技法」と書かれているラベルを頻繁に見かけますが、それはドン・ピエール・ペリニヨンのシャンパン製造方法にて製造した、という意味になります


ドン・ピエール・ペリニヨン(Dom Pierre Pérignon1638-1715)の彫像



そして、ドン ペリニヨンは 1715 年に亡くなる前にシャンパン製造に関して、以下のような大切なアドバイスを後継者に残します。

- 白ブドウはワインに潜在的な発酵傾向を与えるため、黒ブドウを使用したピノ・ノワールが良い。

- ブドウの質を上げるため収穫量は少なくする。そのためブドウの高さが 1 メートルを超えないようにすること。

- ブドウが無傷で茎に付着し、新鮮なままであることを確認し、慎重に収穫すること。壊れたり傷ついたりしたものは捨てること。

- 揺らしすぎるなどしてブドウを傷める可能性のある動物を使用した作業を避け、必ずブドウを人による手作業で圧搾機に運ぶこと。

- 大きなブドウよりも、おいしい小さなブドウの方が品質が良い。

- 仕事は早朝し、暑い日は夕立などで気温が下がる時を利用すること。

-決して足でブドウを押したり、搾りかすをマストに浸漬したりしないこと。