2022年12月21日水曜日

2022年11月からニュースレターを発行を始めました。

 



ガレリア・カジョリカは先月からニュースレターを発行を始めました。 ニュースレターには「タイムリーに入荷情報の欲しい方はブログやインスタグラムをフォロ ーして下さい。」と書きますが、インスタグラムにはニュースレターに何も書いていなかっ たので、お知らせします。

配信は不定期ですが、うるさくない範囲で、と概ね月1回程度を予定していますが、新着情
報、ブログ新ページのご案内のほか、ヤフオクに出品しない在庫などニュースレターだけの
情報も盛り込んでいきたいと思っています。
写真は昨日配信した2通目の今月のカバー写真。
内容はこんな感じです。

ニュースレター配信ご希望の方は、こちらから登録可能です。

2022年12月15日木曜日

アール・デコ バカラ製 デルヴォー ジュースセット  BACCARAT X DELVAUX SERVICE à ORANGEADE


アール・デコの時代パリのデルヴォー(Delvaux)のためにバカラが作製したジュース用のグラスとピッチャーのセットです。

初めて見て購入しましたが、デルヴォーらしくもありまたバカラららしくもある非常に希少な品です。

名称は不明です。ご存知こ方がいらっしゃいましたらご教授いただければ幸甚です。


近年ジュースセットとして売られている品の多くは、実はビールセットとして製造されたものがほとんどですが、その場合グラスは円柱形が多いので、これはもしかしたら初めから本当にジュースセットだったのかも知れません。


グラスはワンサイズで

最大径:85mm 口径:80mm  高さ:107mm  満水容量約300ml



ピッチャーはローハンシリーズと同型で

最大径:122mm 高さ:198mm 満水容量約1000ml




パリのデルヴォー(Delvaux)デルヴォーは1880年代に創設され1970年代までパリロワイヤル通り 18 番地にあった高級日用品店で、ハヴィランド、モンティニー・ル・ロワ、バカラ、ショワジー・ル・ロワ、フォンテーヌブロー、セーヴル、クリシーなどの装飾ガラス、陶磁器を販売を行う他、当時の著名アーティスト達が店内に陣取りその場で絵付けも行っていた斬新なお店であったと言われています。


まだあまり詳しくは知らないのですが、デルヴォーというとエナメル装飾のガラス器が一番に思い浮かびます。特に1920年第30年代に制作されたというジャポネスクを意識したような、賑々しい梅のエナメル装飾のグラスやデキャンタは今でも有名で、欧州のアンティークショップやオークションハウスなどでは高額で取引されています。

製品には全てサインがあるといわれていて(*1)サインにはショップの名前と、時にはデザイナー名やショップの住所が書かれて他ものもありますが、主なサインは「DELVAUX」、「DELVAUX PARIS」、「Delvaux Paris」の他「Delvaux 18 r. royale  Paris」とショップの住所が書かれてるものや、中にはデザイナー、アーティストのサインが入っているものもある様です。


このセットのDELVAUXのサインの例


左上デルヴォー パリのサインの入ったグラス

左下バカラのマークだけの入ったグラス

右デルヴォー パリのサインと住所の入ったピッチャー



先程デルヴォーについて各資料探しにちょっとフランスのeBayものぞいてみましたら、D Parisというサイン入りでデルヴォー風の梅のエナメルが施されている花瓶を見つけましたが、梅のエナメルの絵が他の「DELVAUX」とサインのある品に比較し、とても雑で私感ですが偽物ではないかと思います。

フランスのネットオークションは変な人も少なからずいて嫌ですね。



(*1)

またサインに関しては、どんな資料を読んでも「製品には全てサインがあり」と書いてあるのですが、そうは言っても本当に全ての製品にサインがあるのではなく、このセットを例に取れば、ピッチャーには「Delvaux 18 r. royale  Paris」とショップの住所まで入っています。

グラスは入手した8客中5客に「Delvaux Paris」のサイン、3客にバカラ マークが入っています。

ということは、正確に言えば、例えばセットの中のデルヴォーサインの入った品が壊れてしまうと、バカラ 製品としか認識できなくなり、またバカラマークの入った品が壊れてしまうと、バカラ製であったということが分からなくなるなってしまうということも覚えておきましょう。







典型的なデルボーのスタイルのエナメル装飾のデキャンタ。

1920年代から30年代にかけて大流行しました。




恒例の名前の由来コーナーは、こちらも名称不明のため残念ながらかけません。名前がわかれば追記します。


2022年12月14日水曜日

アンティーク ラリック ニッポン LALIQUE NIPPON


ルネ・ラリックのニッポン。ラリックのアール・デコ期を代表するモデルです。

以前からずっと憧れていた品でしたが希少な上に人気があって、値段もそれなりで、、、なかなか手が出ませんでした。

今回大きいサイズを5客だけ入手しました。





プチプチの球形のレリーフが下部に施された、独特のアール・デコのモデルで、1930年のリリースの非常に美しい、眺め飽きないモデルです。

今回の入荷は大きいサイズで、多分シリーズで最も大きいのでは。と思います。

満水容 量で350ml 直径82mm 高さ125mm 

 ビールグラスとしても良いサイズですね。


カタログページ




入手したことはありませんが、プチプチの球形のレリーフがベースにのみ施され、直線的な形状のトーキョーというモデルもあります。


恒例の名前の由来のコーナーは説明する必要もないと思いますので、今回は割愛します。




ラリック ニッポン シリーズ

Photo ©LALIQUE

https://www.musee-lalique.com/en/nippon-table-service




こちらはプチプチの球形のレリーフがベースにのみ施され、直線的な形状のトーキョー

ラリック  トーキョー シリーズ

Photo ©rlalique.com

https://rlalique.com/rene-lalique-tokyo-tableware-14888

2022年11月3日木曜日

アンティークバカラ 6185型 6295カット BACCARAT FORME 6185 TAILLE 6295

 

バカラの1907年のカタログに掲載されているこのモデル、マントノン と同じカット施した コート・ヴェニシエンヌ(ヴェニス風リブの意)、ヴェネツィアン風作りの6185−6295になります。


通称「マントノン 」と呼ばれている61866170 カットとカット番号が違いますが、良く見るとカップ部のカットは同じなので、カット番号の違いはベース部のカットの違いなのではないかと推察します。


マントノン もとても魅惑的なアイテムですが、この61856295カットも同様の逸品です。


マントノン との比較 上:61856295カット 下:マントノン 



1907年 カタログページ


61856295カット サイズ表




型番が番号のため、恒例名前の由来のコーナーは書けないので、今回はこれでおしまいです。



マントノン のブログページはこちらです。



6185型はコート・ヴェニシエンヌ(ヴェニス風リブの意)が施されています。コート・ヴェニシエンヌの詳細はサン ルイ クリュニー SAINT LOUIS CLUNYの項目の文末をご覧下さい。



”似てるけど違うもの” I

よく似ている品の違いの解説コーナーです)

昨晩フランスのオークションハウスのサイトを見ていて驚いたのですが、バカラの6185−6295に非常によく似た品を見つけました。
どこのメーカーものであるかは明記はありません。

有名ブランド物とわかっていてももマークが入っていないとメーカーを明記しないオークションハウスは少なくありませんが、(ネットオークションでは逆にバカラでないものもバカラバカラと記載して売ってる不謹慎な輩を多く見かけますが)これはバカラの品ではありません。

カットの雰囲気がとても似ていますが、よく見ると上向きの花の方向や中央部分の花の花弁の数などの他、脚部の作りも違います。
脚部の作りがサンルイのクリュニーにかなり似ているので探してみましたが、私の手持ちのサンルイのカタログでは今の所確認できていません。






”似てるけど違うもの” II

よく似ている品の違いの解説コーナー。また似ているものを見つけたので追記します。)

一見雰囲気がよく似ていますが、カットは明らかに異なります。
特に分かりやすいのは、お花のカットは横向きだけで、
マーガレットのような真上からのカットがありません。

 2023年3月4日更新
この品はクリシー のものではないかという説が浮上しています。





2022年10月13日木曜日

カラーケア LA CURA DI COLORI - ovvero, seconda vita dei calici art deco-

 


購入したグラスは自分で持って帰ってくるのが一番ですが、どうしても送ってもらわなければいけない時は、梱包方法のマニュアルとグラスが個包になるようにサイズのごとの箱を送り梱包してもらいます。それでも輸送中乱暴に扱われるためいくつか壊れて届くことがあり、その度に悲しく痛いような気持ちになります。



写真は通常の学校カリキュラム外の子供の教育に無償で取り組むNPOの活動資金を作るためチャリティーオークションにかけるアートワークの提供を依頼され、寄贈したグラス3客。


ミケランジェロ、ローハン、ルリのオリジナルな修復プロジェクト、もしくは、アール・デコのグラスの第二の命、とでも呼びましょうか。


以前は捨てていた壊れグラスを再構築して、亀裂部分は金継ぎの代わりに色とりどりのエナメルの点描で仕上げました。


今週月曜、ミラノのサザビーズでオークションがあり、ハンマープライスは3客セットで 1100ユーロ、現在のレートだと約16万円で落札されました。

売り上げは全額、オーガナイザーのNPOメルクリオ アソシエーションに寄付されます。


もしも割れたままだったら、捨てざるを得なかったグラスのかけらが、二度目の命を得て気に入ってくれた人の手に渡り大切にされるというのは、また収益が慈善事業のために有効に利用されるというのは、売り上げが自分の収入にならなくても嬉しいものです。


2022年10月10日月曜日

サン・ルイ ジャージー SAINT LOUIS JERSEY

 サン・ルイ ジャージー SAINT LOUIS JERSEYは1986年リリースのヴィンテージものです。

ヴィンテージの家具を扱っている友人が、今パリでは1980年代の家具が大ブームとか。。。だから仕入れたという訳ではないのですが。。たまたま。。。


サン・ルイのJERSEY(ジャージー)


サン・ルイのJERSEY(ジャージー)



サイズ表




名前の由来


ジャージー(JERSEY)と聞くとフィットなニットの生地ジャージーを連想する人が大半だと思いますが、元々はジャージー島の漁師の作業服に使用されていた布(ニット)なのでまずは、島に関することをから書き始めます。


ジャージー島はイギリスとフランスの間にある島。



ジャージー島


地図


ジャージー島



 地図にも見られるように、距離的には圧倒的にフランスに近いのですが、イギリス国王を国家元首とし、でもUK連合王国には入っていない微妙な土地です。正式にはジャージー代官管轄区 Bailiwick of Jersey)と呼ばれています。

位置的には 、イギリスとフランスの間で長年複雑な政治状態にであ田だろう事は歴史を読まずとも想像できますね。


 歴史的には9世紀から海賊の活動が活発で、993年ブリターニュ公国から、フランス ノルマンディー公の支配下となり、その後ノルマンディー公がイングランドを征服(1066年)したことでイギリス領となります。

そしてそのイングランド王兼ノルマンディー公 1204年フランス国王からノルマンディー地方を剥奪された際に、なぜか(すみません、調られず)ジャージー島はイングランド王領のままに留まり、それ以 来、ジャージー島は歴代イギリス王室の直轄地となっているのだそうです。 


 冒頭にも書いたようにジャージーの名が有名なのはフィットなニットの生地ジャージーだと思いますが、元々はジャージー島の漁師の作業服に使用されていた無骨な布(ニット)をハイファッションに初めて起用したのは、かのココ・シャネルでした。1920年代のことでした。


ストレッチの布などのない時代、スポーツウエアや着心地の良い、動きやすいスポーティーなファッションとして大人気を博したのでした。


ココ・シャネル名言

「贅沢というのは快適でなければいけない。そうでなければ贅沢ではない。」



ココ・シャネルデザインのスポーツウエアwww.gettyimages.it
このほかテニスウエアなどにも多く使われました。



ココ・シャネルデザインのスポーティーなファッション 1920年代 www.gettyimages.it



ココ・シャネルデザインのジャージーのスーツ 1950年代 www.gettyimages.it




また、ホルスタインに次いで二番目に世界に広がっている乳牛ジャージー種もジャージー島が起源とされています。

乳牛ジャージー種

2022年7月12日火曜日

アンティークバカラ エトワール BACCARAT ETOILES


エトワール シリーズ


1903年カタログページ グラヴュール:4770 Etoiles = エトワールとあります。

1916年カタログページ



似ているけど違うもの

同じく星のエッチングがあり似ているので、一般的にはこちらもエトワール と呼ばれていますが、こちらのカットとグラヴュールの番号は4771で、「Etoiles、エトワール」という記載はありません。






サイズ表



ヒット商品だった品は、類似品というのが時々見られます。
長年使っていた家庭からセットで購入すると、補充のために購入された類似品が混ざっていることがあります。

左は類似品、右がバカラのエトワール。
脚の形状は全く異なり星の数、カップ部の角のシャープさなどが異なります。


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名前の由来


ご存知とは思いますがEtoiles、エトワールといういうのはフランス語で「星」という意味。


星の画像はこちらのリンクから拝借しています。

https://www.gmpe.it/astronomia/stelle



空の星の他にエトワールというとくクラッシックバレエの”スター”バレリーナのことをさしますよね、そこでこの項目は独断で、私の地元ミラノ出身で、1981年にニューヨークタイムズが「史上最高のエトワール 」と絶賛したカルラ・フラッチの話を少しですが書くことにします。



カルラ・フラッチ


カルラ・フラッチ(1936ー2021)の父親はミラノ市電の運転手、という極めて庶民的な家庭に育ちます。

ブリジョワ以上の家庭の女子が優雅な所作を身につけさせるためにバレエを習わされるのはこちらでは一般的ですが、カルラはそういう社会層の家庭出身ではなく、お父さんの務めるミラノ公共交通機関の余暇サークルで踊った彼女の才能に目をつけた知人がスカラ座のバレエ学校のオーディションをぜひ受けるようにと強く勧めることからじ始まります。



カルラ・フラッチと父親のミラノ市電の運転手




カルラ・フラッチと父親のミラノ市電の運転手。決して経済的に楽ではない家庭だったと想像しますが、両親のふんだんの愛情を注がれて育ったことと彼女それに感謝していることが伝わってくる写真です。お父さんはスカラ座の前を通る1番のトラムを運転していて、スカラ座の前で必ずベルを鳴らしたと言います。


スカラ座のバレエ学校バレエ学校を卒業し2年後にはソリストに、その2年後にはプリマバレリーナ、つまりたったの4年でスカラ座のエトワールになります。


ロマンチックでドラマチックな演目を得意とし、彼女の踊るジゼル、ロメオとジュリエット、コッペリアなどは特にゆうめいで世界中の一流バレエ団と共演します。


バレリーナ第一線を退いてからも各地のシアターのバレエ団の監督などをして文化的に大きく貢献します。


だいぶ年配になってからのインタビューを聞いたことがありますが、その当時進めている様々な企画の話をする彼女に「たくさんの仕事をしてらして素晴らしいですね。」というインタビュアーのコメントに、「たくさんの仕事は、それを信じてするのなら、素晴らしいのです。」という彼女の答えが印象的でした。



カルラ・フラッチ

2021年に彼女がなくなった時、市の交通局は白いトラムをスカラ座の前に留めて長くベルを鳴らして哀悼の意を表しました。

カルラ・フラッチ哀悼のために用意された白い市電

2022年7月8日金曜日

ローハンエッチング、ロングステムのコンブールのサイズ表を更新しました。

 

最近入手したローハンセットの中にローハンエッチング、ロングステムのコンブール、まるで私のサンプル用に用意してくれたかのように、各タイプ1客だけ混ざっていましたのでのサイズ表を更新しました。

今までは一番小さいワイングラス、ポートワイングラスしかなくそこから比例計算をしていましたが、直径に若干の誤差がありました。



2022年7月1日金曜日

アンティークバカラ マントノン BACCARAT MAINTENON  6186-6170


先月書いたこの項目、間違って消してしまったので再度アップロードです。


精巧なカットが施され上品でフェミニンな雰囲気のこのグラス、一般にマントノンと呼ばれています。

が、カタログ上にはマントノンという表記は見当たりません。カタログ上のシリーズ正式品番はフォルム6186-カット6170

アンティークのバカラ愛好者達がこのグラスを自然と太陽王ルイ14世の最愛の人、マントノン夫人の名で呼ぶようになったのだと思うと、ある意味ますます素敵です。


1903年のカタログ上で確認できるアールヌーボー期の意匠です。



1903年のカタログページ



サイズリスト 




名前の由来


マントノン侯爵夫人


冒頭にも書いたようにカタログ上のシリーズ正式品番はフォルム6186-カット6170になります。

一般にマントノンと呼ばれている丸みがあり上品で高級感があるけれど控えめなこのシリーズを見て、「バカラってなんてネーミングが上手いんだろう。」と感心していたのですが、いざセットで入手して古いカタログを調べてみたら、カタログ上にはマントノン MAINTENON という表記はなく、このグラスの優しい感じから、自然とマントノンと呼ばれるようになったのだろうと想像します。


とここまで読んで、マントノンって何?誰?と思う方もいると思います。

実は私も恥ずかしなからフランスとカナダ合作連続テレビドラマ「ヴェルサイユ」を観るまでは知りませんでした。(汗&笑)


連続テレビドラマ「ヴェルサイユ」はルイ14世を主人公としてヴェルサイユ宮殿の建設からその後の宮殿内で起こる様々な事件、人間模様、ラブストーリーなどを描くドラマで、ちょっとラブシーンが多すぎの感も。。でも当時のヴェルサイユ宮殿の人間模様をうまく絵ががれていたと思います。あまりテレビドラマを見ない私は特にテーブルセッティングの時代考証見たさで観ていました。ドラマ内ではルイ14世を取り囲む様々な愛人や女性の中で際立って穏やかで思慮深いマントノン侯爵夫人に好感を持った人は多かったと思います。


マントノン侯爵夫人はルイ14世の最後の恋人で、秘密結婚をした後は王は二度と愛人を作らなかったと言われています。



マントノン侯爵夫人ことフランソワーズ・ドービニェ 1635年生まれ。厳しいユグノー(プロテスタント)の教育を受けて育ちますがわずか12歳で母親を亡くし、伯父夫婦の家に預けられ、代母ヌイヤン伯爵夫 人シュザンヌ に連れていかれたパリで知識階級の人々と知り合うことになり、その中で知り合った25歳年上の詩人ポール・スカロンと1651年僅か16歳で結婚します。



フランソワーズの最初の夫、詩人ポール・スカロン

この肖像画を見ると少しギョッとしますが、妻フランソワーズには優しく

また知性の豊かな人だったのでしょう



極度のリウマチで体の不自由だったスカロンとの結婚生活は彼のなくなるまで9年間続き、その間に夫の社交サークルの女主人となり、文筆家や機知に富む知識人、ヴェルサイユ宮殿に出入りるすモンテスパン夫人、教養と美貌を備え持つニノン・ド・ランクロらと面識 を持つ機会を得ます。


1660年に夫のポール・スカロンが亡くなるとフランソワーズは再び困窮した状況に置かれますが、ルイ14世の愛人モンテスパン夫人にパリにとどまることを勧められ、モンテスパン夫人がルイ14世第一子が誕生すると王の庶子を養育する 召使の一人になります。 



子供たちに囲まれたフランソワーズ、後のマントノン夫人



フランソワーズは子どもを持ちませんでしたが元々母性の強い人柄で王の庶子たちを大きな愛情を持って育てます。庶子 で最も年長のルイーズ・フランソワーズが夭折したとき、実子に愛情を注がないモンテスパン夫人とは対照的にフランソワーズは悲嘆に暮れ、 その様子を見たルイ14世が「なんと愛情の深い人なのだろう。あんな人に愛されてみたい。」と言ったというエピソードが残っています。



ルイ14世の寵愛を受けたモンテスパン夫人


ルイ14世はフランソワーズの献身的な働き方を高く評価し、お給料を増やし、マントノンの領地と城を購入し王の庶子たちは、その後はマントノン城で暮らすようになり、そのためフランソワーズは1678年に所領にちなんでマントノン侯爵夫人の称号を与えられます。




マントノン



そのように王の優遇されても簡単に愛人になることはせず、まずは知性と友情で王の完全なる信頼を得ます。1670年代の後半から、王は余暇をいつもマント ノン夫人と過ごし、政治、信仰、経済を論じ合っていたといいます。 


1673年頃のルイ14



1680年、王がマントノン夫人をドフィヌ(王太子妃 マリー・ アンヌ・ド・バヴィエール )の第二女官長とした直後、毒物薬物事件に関与していたことで王の愛人のモンテスパン夫人が宮廷を去ることになり、王の正妻である王妃マリー・テレーズ・ドー トリッシュもモンテスパン夫人から受けた屈辱から解放されたと言ったといいます。


1683年王妃が急逝した後、1685年から1686年にかけての冬の日の深夜に、パリ大司教が司った私的な挙式にお いて、マントノン侯爵夫人ことフランソワーズはルイ14世と結婚します。ルイ1445歳、フランソワーズ48歳の時でした。

王族は国益のためにも他国の王室の子女と政略結婚するのが当たり前だった時代のこと。社会的階層の不釣合いのために、彼女は王と の結婚を公にし王妃となることはできず、貴賎結婚でした。 

結婚についての証明書は何も存在していませんが、歴史家たちは結婚が確かにあったことを容認し、王はその後二度と愛人を作らなかったと言われています。

 

ルイ14世の大臣達は、王が処理する用件の大半を前もってマントノン夫人と話し合っていた というほど周囲にも信頼され国政にも大きな影響を及ぼしたと言われています。


ルイ15世の寵愛を受けた美貌の才媛ポンパドール夫人もマントノン夫人に憧れていた


また自分自身の生い立ちを振り返ってか、良家出身の財産のない子女のため に聖ルイ王立学校を創設します。学校はリュエイユで開校し、その後ノワジーへ移ります。王は彼女の要請に応 じて、サン=ドニ修道院の基金を用いてサン=シール (現在のイヴリーヌ県サン=シール=レコール)を彼女に与えました。マントノン夫人は学校の規則を制定し、 あらゆる詳細な内容を吟味し、生徒たちに親しみやすく、母のような影響を与えたとも言われています。



聖ルイ王立学校



1715年のルイ14世の死を前にして、彼女はサン=シールへ引退しますが、 ルイ14世の弟オルレアン公フィリップ2 は彼女に多額の年金を与えて彼女に敬意を表します。


1719年のルイ14世の死の4年後になくなりますが、病中 彼女を訪問した、後にピョートル大帝と呼ばれるロシア皇帝ピョートル1世は「私は、フランスの持つあらゆる注目に値するものに会いにきたのです。」と言ったというエピソードが残っているほどマントノン夫人は王と国家へ多大な奉仕をしたと言われています。



ロシア皇帝ピョートル1