2020年1月5日日曜日

アンティークバカラ ルイ15世 BACCARAT LOUIS XV

 LOUIS XVの金彩シリーズ


今回入手したLOUIS  XVのシャンパンクープグラス



フランスではシャンパン - ソーサー型グラス、所謂シャンパンクープグラスの原型は、胸フェチだったルイ15世を喜ばせようと美貌の才媛の公妾ポンパドゥール夫人の胸を 模してガラス 職人に注文、製造させたというのが通説です。

本当のところはポンパドゥール夫人の登場より一世紀前の1663年にスパークリングワインやシャンパンを飲むためにイングランドで作られたらしいのですが、ポンパドゥール夫人の胸と思ったほうが女性の私でも面白いですし(笑)もしかしたらクープグラスはイングランドからフランスには伝わらず、フランスでは本当にポンパドゥール夫人の胸を 模して始まったのかもしれません。

ちなみにシャンパンクープグラスはその誕生から1970年代に至るまでフランスで愛されていたほか、アメリカでは1930年代から1980年代まで流行していたそうです。

クープグラスはフルートグラスよりも香りを感じ取りやすいけれども炭酸がすぐに抜けてしまうという甲乙ありのグラスですが、個人的にはシャンパンやスプマンテはクープグラスでなければ贅沢さが感じられない。特に何かのお祝いの時には絶対クープグラスでなければとこだわっています。

1907年カタログページ



ルイ15

ルイ15(1715-1774) は太陽王と呼ばれた曾祖父ルイ14世の死によりわず 5歳で即位することになります。

5歳のルイ15世の戴冠式


ルイ15世の王冠


ルイ15世の成人前はルイ14世の甥のオルレアン公フィリップ2世摂生の座に就き政務をしきり、成人後はブルボン公ルイ・アンリ、フルーリー枢機卿が執政します。
フルーリー枢機卿は1726年から死去する1743年ま で、ルイ15世の信任の下フランスを統治します。こ の時期はルイ15世の治世下では最も平和で繁栄した時代であり、ルイ14世期の戦争による人的物質的損失からの「回復」の時代(gouvernement “réparateur")と呼ばれています。

フルーリー枢機卿の死後は親政を行いますが、ルイ15世はあまり政治には興味がなく、公妾のポンパドゥール夫人やデュ・バリー夫人が政治に大きく干渉したことは、つとに有名です。



出産適齢期で健康で子供がたくさん産めそうだという理由で選ばれた
元ポーランド王の娘 王妃 マリー・レクザンスカ

ルイ15世ははじめマリー・レクザンスカを熱愛し11人の子をもうけますが、9人は女性で男性は2人のみ。
そのうちフィリップは夭逝。長男ルイ・フェルディナンはルイ16世の父にあたります。

王妃がほぼ年中妊娠していたこともあっ て、ルイ15世は1734年頃から公的愛妾を持つようになり 1739年以降、ルイ15世は国王が病人に手を触れて病を治す奇蹟の儀式を止ます。これは不倫を繰り返すルイ15世が自ら、神聖な儀式を行う資格がないと考えたためだそうです。


ルイ15世の3人目公妾シャトールー公爵夫人 
ルイ15世は1744年のオーストリア継承戦争 で戦う軍隊の指揮を執るためアルザスに出征した際このシャトールー夫人を同行させたことで世間の不評を買います。
27歳で亡くなり夫人の死後ルイ15世はひどく落胆したといいます。


ルイ15世の公妾になってまもない頃の初々しいポンパドゥール夫人


初の貴族出身でない王の公妾ですが裕福なブルジョワ出身でその美貌と教養で有名。
政治に関心の薄いルイ15 世に代わって権勢を振るうようにな ります。
1750年以降は公妾を退き、国王とは 友人として付き合った。性的関係はなくなった後も彼女は国王から深く信頼され有力な助言者となります。 

公妾になったポンパドール夫人はあちこちに邸宅を建てさせます。現大統領官邸エリゼ宮は彼女の 邸宅のひとつですし、マリーアントワネットが引きこもった有名なプチトリアノン宮殿は元はルイ15世がポンパドゥール夫 人のために建てさせたものでしたが、彼女の生前には完成しなかったのです。 
浪費を批判されつつも啓蒙思想や芸術をを擁護した功績は広く認められていますし、1756年には、オーストリア のマリア・テレジア、 ロシアのエリザヴェータ と通じ反プロイセン包囲 網を結成し「3枚のペチコート作戦」を遂行します。特に宿敵オーストリアとの和解は 交革命と言われるほど画期的であり、和解のために後年マリー・アントワ ネットがフランス王室に嫁ぐこととなります。 


美貌ばかりでなく学芸的な才能に恵まれ、 サロンを 開いてヴォルテールやディドロなどの啓蒙思想家と親交を続け、百科全書派を教会の攻撃から守り、百科全書の刊行を実現させた功績もポンパドゥール夫人のものです。


ポンパドゥール夫人の肖像画。 


よく見ると机の上に百科全書が。


国政の方に話をもどしますと、1748年に結ばれたエクス・ラ・シャペル条約では元ロレーヌ公フラ ンソワの神聖ローマ皇帝位を承認しネーデルラントの占領地を 返還するという、フランスに全く利益をもたらさない結果となり、ルイ15世は国民から酷く不評を買うことになり、その人気は凋落したと言います。 また七年戦争のために財政はひどく悪化して おり、このため財務総監マチュー・ ダルヌヴィル は聖職者、貴族を含む 全国民を対象とした「二十分の一 税」の導入に取り組みましたが、新税の導入には免税特権を侵される聖 職者、貴族が猛反発し、パリ高等法 院は王令の登記を拒んで抵抗 、国王とパリ高等法院が対 立して紛糾します。

鎧姿のルイ15

七年戦争でオーストリア・フランス同盟軍は、名将フリードリヒ2世率いる プロイセン軍に苦戦し、175711月のロスバッハの戦いで大敗を喫した上、アメリカ新大陸の戦いでもフランス軍はイギリス軍に敗れ、 ケベック とモントリオール が陥落します。17632月、パリ条約が結ばれ、フランスはカナダ、ルイジアナ、西インド 諸島の一部を含む広大な植民地を失いポンパドゥール夫人の亡くなる1764年頃には国家財政はかなり厳しくなります。

それまでクリスタル器はボヘミアからの輸入に頼っていたフランスは貿易赤字を少しでも抑えるために、ルイ15世はバカラ 村にクリスタル工場の建設を許可します。バカラ 創業にはそんな歴史的な背景もあるのです。


ルイ15世の晩年の数年は外務卿兼陸軍卿ショワルーズ公が政権を担いその実績は多くの歴史家から評価されています。

1765年、王太子ルイ・フェルディナンが死去します。ルイ・フェルディナンの長男と次男は夭逝しており、三男のベリー公が ドーファン (王太子、後のルイ16)となり、ショワズール公はオーストリアとの同盟関係を 強化すべく、新王太子とマリア・テレジアの皇女マリー・アントワネット との政略結婚をまとめ、婚儀は17705月に行われます。


ルイ15世最後の公妾デュ・バリー夫人

貧しい家庭に私生児として生まれ若い頃は娼婦同然の暮らしをしていたと言われ、マリーアントワネットと犬猿の仲だったことでも有名。
ルイ15世が老境に入った1768年、王妃マリー・レクザンスカが死去する1か月前から公妾となり王の死のすこし前に追放されるまでまで寵愛を受けます。
フランス革命で処刑された人々の中でギロチンを直視できず許しを乞い取り乱したのは彼女だけだったそうで、皆が彼女のように恐れ慄く態度をとっていたら、人々はどんなに恐ろしい処刑をしているかもっと早く認識できて恐怖政治はもっと早く終わっただろうという説もあります。
晩年のルイ15

ルイ15世は1774年天然痘の悪化で崩御。
こうして彼のプロフィールを追っていくと多くの女性を愛し、政治面では「あとは野となれ山となれ」的な王様だった印象を否めませんが、彼と関わった女性達、特にポンパドゥール夫人が華やかで文化的にも広く貢献していますし、評判の悪いデュ・バリー夫人も実は朗らかで気さくな性格の人物だっとというエピソードも残っていますので、良しとしましょうか。。。