2021年11月24日水曜日

アンティーク バカラ マジェンタ BACCARAT MAGENTA

 マジェンタ(Magenta)・シリーズ写真



現物を入手したわけではないのですが、綺麗な写真がアーカイブから見つかったので項目を足すことにします。この写真どこから入手したか記憶にないのですがどなたかの版権を侵害しているようでしたら、即刻引き下げますのでお知らせください。


マジェンタの掲載されたカタログページ 1933年カタログ

マジェンタ(Magenta)と同カットのショートステムのモデルはローディ

ローディもマジェンタ同様歴史的戦争のあった街です。


名前の由来

このモデルは「戦シリーズ」のひとつで名前マジェンタの戦いのあったイタリアの街マジェンタに由来しています。

「戦シリーズ」、つまりフランス史上有名な戦いの名前がついたアイテム、シャルム、マジェンタ、マレンゴ、ローディとある中のマジェンタになります。マジェンタ自体はミラノの西 24kmの変哲の小さな町でこの町を知っている人は、「一体なぜこの町がバカラのモデルになったか?」と首をひねるに違いありません。


マジェンタの戦いの様子


マジェンタの戦い(Bataille de Magenta)は、18596 4日にて、に行われた第二次イタリア独立戦争でフランスとサルデーニャ王国軍がオーストリア帝国軍に勝った戦い。それまでオーストリア帝国の影響下にあった北イタリアからオーストリア軍を撤退させるためのフランス軍との戦いでした。。

マジェンタの戦いの軍配置図




現在のマゼンタのサン・マルティーノ大聖堂 1893年建設開始。

マジェンタの戦いの後、戦没者の供養も意味も込め着手されます。


その前に存在していたサン・マルティーノ教会。


現在のマゼンタの大聖堂脇の道

2年前にサイクリングで行った時に撮影しました。


その勝利の功績としてフランス側 の将軍パトリス・ド・マクマオン がマゼンタ公爵に叙せられました。


また、三原色のひとつで、カラー印刷でのインクやトナーに使われるているマジェンタまたはマゼンタは、1851年にフランスリヨンの化学者フランソワ=エマヌエル・ バーギンによって開発された「フクシア」の花の色の染料の特許を1859年に売却し工業化されたのが、この戦勝とほぼ同じ時期だったため染料の色にマゼンタという名前がつけられという経緯です。

日本語のウィキペディアを見ると「1852年にイタリアでナタンソンがアニリンと塩化エチレンを原料に赤色の物質を基として1859年に商品化されたカルボニウム系に属する染料である。」とありますが、イタリアのウィキペディアにもフランスリヨンの化学者フランソワ=エマヌエル・ バーギンによる開発とあるのでフランソワ=エマヌエル・ バーギン開発の方が信憑性があると判断しています。フランスにライバル意識の高いイタリア人が自国開発なのにフランス人開発、と言うことはまずない、と。

私事で恐縮ですが、今までカラーコンサルタントなどの仕事もしてきたのに、フクシア色とマジェンタ色の違いがよくわからなかったのですが、つまり同じ色なのですね。

日本やイタリアではあまり使われない色ですが、フランス人はこの色が好きなように思われます。フランスやドイツでは大企業のロゴやグラフィックなどに使われているのを頻繁に見かけます。

ちなみに、この年パリ市街に完成した通りもマゼンタ通りと命名されたとか。 


マゼンタ色

この色は時々マゼンダ色と「ダ」濁音で呼ばれることがありますが、それは間違いです。


2021年10月15日金曜日

アンティーク バカラ アゼ BACCARAT AZAY

バカラといえばローハン、というくらい人気のあるモデル、そのローハンのエッチングのないバージョン。

名前を知らずブログを書けずにいましたが、やっとアゼ(Azay)という名前だということがわかりました。飽きのこないデザインで1925年のリリースで1961年まで製造されていました。

私的にはローハンと全く同じ形なので、混ぜてテーブルコーディネートするのも、面白いと思っています。


アゼ シリーズ


ローハンとの比較




入手した範囲のアイテムの寸法

実際にはローハンと同じだけのヴァリエーションがあると想像します。




名前の由来

名前はユネスコの世界遺産の一部にもなっているアゼ=ル=リドー(Azay-le-Rideau)城のアゼ(Azay)に由来していると推測。

初期のフランス・ルネッサンス様式でアンドル川の中洲に建てられています。







世界遺産としての指定はシュリー=シュル=ロワール渓谷で、この地方は300を超える古城があり、世界的に特に有名です。

気候も温暖なこの地域にお城が建設され始めたのは十世紀頃。何故か、調べてみました。


中世、カール大帝の時代までフランク王国の首都だったパリは、9世紀の半ばから10世紀の初頭まで何度もヴァイキングの侵略を受けていましたが、987年フランスカペー朝を開いたロベール家のロベール一世がフランス国王となり、パリを占領していたヴァイキングをノルマンディー地方に遠のけパリ首都とします。「フランス」という国名はこの時から使われることになります。パリ首都とはしたものの、王本人はロワール地方の最もパリに近いのオルレアンに居住し当時は政治の中心がまだパリとは言い切れない状況だったようです。


16世紀にフランソワ一世がフランス国王になり権力の中心をパリに戻すまで、5世紀に渡りフランス国王やそれを取り巻く貴族によりゴージャスなお城があちこちに建設されます。

フランソワ一世が公式的には1528年にパリを居城と定め、お城の設計に関わってきた大建築家たちがパリに移った後も、大半のフランス貴族はロワール渓谷周辺で過ごすことを好み、太陽王ルイ十四世がパリ郊外にヴェルサイユ宮殿を建設した後でさいえも、多くの貴族やブルジョワが既存のお城を改装したり、新しいお城を建設し続けたといいます。


川の中州に建てられたアゼ=ル=リドー城(Château de Azay-le-Rideau





アゼ=ル=リドー城 内部





アゼ=ル=リドー城 ディテール

フランシス1世の紋章サラマンダーが施されています。



フランシス1


1800年頃のアゼ=ル=リドー城
http://www.azay-le-rideau.fr/より



アゼ=ル=リドー城はロワール渓谷の数あるお城の中でも、イタリアルネッサンスの影響の大きい初期のフランス・ルネッサンス様式の最も重要な例として評価が高く、多くのお城が地方自治体などの管理下にある中。このアゼ=ル=リドー城は1905年からフランスの国有財産となっています。

19世紀に旅行で立ち寄ったバルザックやプロスペル・メリメなどの文化人に絶賛されたことでも知られています。


お城の誕生は中世、12世紀に遡り、ブルゴーニュとアルマニャックの百年戦争時代の犠牲となります。

1418年パリから逃げる途中のシャルル七世が当時城と村を占拠していたブルゴーニュ軍の侮辱に苛立ち、主は彼の軍隊に城を襲撃するよう命じ、 内部の350人の兵士が殺害され、城自体が破壊され、その後約一世紀放置されます。


城が現在の形に近づくのはその100年後のこと。1518年にトゥール市長で国王の財務管理もしていたルイ十二世のお気入りジル・ベルトル(Gilles Berthelot )がついで国王となったフランソワ一世の有能な金融家となり成功し、自分のステータスシンボルの城として、中世の城の余韻を残しながらも、当時最新のルネッサンス様式を採用し大改装(実際には元の城は解体したという記述する文献もあります。)に着手することで現在のお城となりますが、途中フランソワ一世に横領を暴露されメスに逃げ落ち間も無く亡くなったため、所有者が変わるなどして、元の設計案は完成されないままとなり、他のお城のような左右対称ではないL字型のプランでアンシンメトリー建設が終わっていることから、それが特徴ともなっています。



ロワール渓谷の多数お城のある地域

赤矢印がアゼ=ル=リドー城

トゥールの近くです。



このお城で有名なこの地方で最も有名なお城といえばフランソワ一世のために建設されたシャンボール城(Château de Chambord)で、年間数十万人の訪問者がると言われています。


フランソワ一世のために建設されたシャンボール城(Château de Chambord



シャンボール城(Château de Chambord)の貴重な航空写真

2年前友人がセスナ機から撮影して送ってくれたもの



シャンボールと言う名のバカラのグラスもあるのでは検索してみましたが何もヒットせず。サン・ルイではシャンボール(Chambord)というモデルが1974年から2017年まで製造されていました。






サン・ルイのグラスシリーズ、シャンボール(Chambord


2021年10月8日金曜日

アンティーク バカラ レックス BACCARAT REX










典型的なアール・デコ様式の形状で、飽きのこない幅の狭いフラットカットを施されたこのレックスというモデル、比較的希少な部類に入ります。


初回ははポートワインサイズの小さなグラスだけ入荷しました。



名前の由来


REX=レックスというのはラテン語で「王」の意味になります。

どの王様について書こうか迷った末、今まで書いたフランス国王に関連する記事をまとめることにします。


フランスで王様といばブルボン王朝の「太陽王」と呼ばれたルイ14世が最初に頭に浮かぶのが普通だと思いますが、ルイ14世に関してはすでにブルボンの項目で書いています。

ルイ14世 詳細はに「ブルボン」の項目をご覧ください。

http://galleria-kajorica.blogspot.com/2020/09/baccarat-bourbon.html




ルイ15世に関してもその名ずばりのモデルがあるのでそちらで書いています。

ルイ15世 詳細はに「ルイ15世」の項目をご覧ください。

http://galleria-kajorica.blogspot.com/2020/01/15baccarat-louis-xv.html





ナポレオンによる短い帝政の後、フランス最後の王となったシャルル10世に関してはロッシーニの項目で書いています。

シャルル10世 詳細はに「ロッシーニ」の項目をご覧ください。

http://galleria-kajorica.blogspot.com/2015/11/baccarat-rossini.html




もっと古いアンリ2世のことはメディシスの項目で書いていて、概ね網羅してしまっていますし、ブルボン王朝よりも古くなると、遠すぎて親近感も持てません。

アンリ2世 詳細は「メディシス」の項目をご覧ください。

https://galleria-kajorica.blogspot.com/2019/02/baccarat-medicis.html



アンベール・デ・バタルネーが顧問となったフランスの王達、ルイ11世、シャルル8世、ルイ12世、フランソワ1世に関しては少しシャルムの項目で触れています。

アンベール・デ・バタルネーが顧問となったフランスの王達、

ルイ11世、シャルル8世、ルイ12世、フランソワ1世

詳細は「シャルム」の項目をご覧ください。

http://galleria-kajorica.blogspot.com/2016/01/baccarat-charmes.html




革命前最後の王ルイ16世はギロチンにかけられ、あまり書きたい気持ちにはなれず。。。人気もないので関連する名前のついたモデルもありません。

ヨーロッパで最も長く続いたのはイタリアの最後の王朝であるサボイア朝と言われていますが、イタリアは第二次世界大戦後、国民投票で王制を廃止し共和国になっていますし。王権を奪われスイス移った後の最後の王様は娼婦のスキャンダルなどもあり、これもまたあまり書いたい気持ちになれません。


ですので、「あ、この王様のことなら書きたい。」という人を見つけるまでこの項目はここまで、とさせて頂きます。悪しからず。





2021年10月7日木曜日

アンティークバカラ ミモザ BACCARAT MIMOSA










ミモザシリーズ




1916年のバカラ カタログ




名前の由来

花をつけたミモザ


名前自体はそのものズバリ黄色い可憐なお花と枝葉の、あの植物のミモザです。

なので由来を書くというほどでもないですが、イタリアに住んでいる私にとってミモザの花は特別なお花なので、まずはそれから書き始めることにします。

イタリアでは毎年38日が女性の日、Festa della Donna、正確に訳すと「女性のお祭り」になりお出かけや外食を楽しみますが、男性が女性に敬意と感謝を込めてミモザの花をプレゼントし合うのが風習です。パートナーだけではなく、友人、仕事仲間など自分にとって大切な女性に贈りますし、気の利いたお店などは朝から女性のお客様にミモザのミニブーケを配ったりもします。日本人の感覚でいうと「女性のお祭り」なら女性友達同士で祝うだろうと思いがちですが、恋人と祝う人もいれば、家族で一緒に祝う家庭もあります。


イタリアではこんなミニブーケを贈り合います。
花瓶がわりにミケランジェロ グラスを使用


国際的には毎年38日国際女性デーは、190438日にアメリカのニューヨークの女性労働者が参政権を求めてデモを行った日です。このデモを受けて、1975年に国際女性デーが制定されました。現在は国連事務総長が加盟国に対して、女性が平等に社会参加できるような環境づくりを呼び掛ける日になっています。

国連だけでなく、途上国の女の子の支援プロジェクト「Because I am a girl 」などを実施している公益財団法人プラン・インターナショナル や民間企業などもイベントやシンポジウムを開催するなど、世界中で女性の社会参画を願った取り組みがなされる日なのです。


1914年の女性デーのポスター


一方フランスでミモザと言いますと南仏コートダジュールマンドリュー・ラ・ナプール(Mandelieu-La Napoule)  という街では、毎年2月にFete du Mimosa「ミモザ祭り」が開催され、ゴージャスにミモザで飾り付けされた山車が繰り出し人々にミモザの花を配る、ミモザ・カーニバルのような賑やかさなになるそうです。まあ、時期的には2月といえばカーニバルの季節でもあ流のでそれを兼ねているのかもしれません。


こちらがそのお祭りの2019年様子のビデオ 

この年は「マルコ・ポーロの冒険」がテーマだったようです。


個人的な趣味で言うとミモザの花や枝葉の奥ゆかしさが好きなので、このお祭りはちょっとやり過ぎで、イタリアのように密かにミモザのミニブーケを贈り合う方が好きですが、「春を告げる花」として、ここでは春の到来のお祭りとしてこれもまた良し解釈しておきましょう。





さて、グラスに凝る方はアルコールもお好きと決めつけている私。カクテル、ミモザについても少し書きましょう。

カクテル、ミモザ
写真はこちらのイタリアの代表的レシピサイトから拝借しています。



簡単で美味しいカクテルのミモザはシャンパン、またはスプマンテ、プロセッコなどのスパークリングワインとしぼりたてのオレンジジュースを半々で混ぜたもの。正式名称は『シャンパーニュ・ア・ロランジュ』(オレンジ・ジュース入りのシャンパン Champagne à l'orangeシャンパン75ml、オレンジジュース75 ml が正式な分量。

ミモザの花と色合いが似ていることからミモザ呼ばれるようになったと言います。正式名称がフランス語である事からも察せるように、パリ生まれのカクテルで1925年ごろにパリのリッツ・ホテルの伝説的バールマン、フランク・マイヤーにより考案されました。

現在はフルートグラスでサービスするのが一般的。


パリ、リッツ・ホテルの伝説的バールマン、オーストリア出身のフランク・マイヤー


1936年にフランク・マイヤーが出版したカクテルの本、オリジナル版の表紙



カクテル ミモザの掲載されたページ

現在はフルートグラスでサービスするのが一般的ですが、

この本では「大き目のワイングラス」を使用と指定されています。

この本一つ一つのカクテルにどういうグラスを使うかが指定されていてとても興味深いです。



一方同じ材料で分量だけ違う別名のカクテルBuck’s Fizzはイギリス生まれ。

ミモザがシャンパンとしぼりたてのオレンジジュースを半々にするのに比較し、Buck’s Fizzシャンパンの割り合いが高くなります。色々なヴァージョンがありますが1921年、最初にロンドンのブックスクラブ(Buck’s Club )の若いバールマン、マラチー・マックガリー(Malachy McGarry)により考案された時の割合はシャンパン100ml、オレンジジュース75 ml だそうです。


McGarry’sのボトルにあるマラチー・マックガリーのポートレート

2021年6月19日土曜日

アンティークバカラ バガテル BACCARAT BAGATELLE

大人気のフォントゥニー(通称ローズ)と同じエッチングのロングステムバージョン、

バガテル。



現物を入手したわけではなりませんが、綺麗な写真を一枚入手したのでバガテルについて書くことにします。


大人気のフォントゥニー(通称ローズ)と同じエッチングのロングステムバージョン、バガテル

 BAGATELLE)。大変希少ななモデルで買値も高く、私の設定価格で購入できたことがありません。形状はローハンロングステムの口の開いている方と同じ、フォントゥニーと同じエッチングなのでこちらもジョルジュ・シュバリエのデザインと言われていて、流石、エレガントですね。



リリース当時(でしょうか?)のカタログページ



名前の由来

バガテル 、バガテッレBAGATELLE と言うと、クラッシック音楽用語のキャラクターピースを指すバガテルを最初に連想する方や、ルイ14世の頃からフランスで大流行した、ビー玉ゲームがこのゲームの賭けに熱心だった王の弟の居城バガテッレのなのついたゲームを連想方もいると思いますが、エッチングのデザインからもバラ園などでも知られるパリのバガテル公園から名前を取ってと考えるのが一番自然ではないかと、バガテッレ公園について少し書くことにします。


バガテル公園はブローニュの森内のパリ 16 区にあるフランスの植物園です。 ヌイイ シュル セーヌ市の同名の地区に隣接し、。 これは、オートゥイユの温室庭園、パリのフローラル パーク、パリ樹木園と並んでパリ市内の 4 つの植物園の 1 つです。

バガテル公園に行くには、パリ 地下鉄1 号線のポン ヌイイ駅が最寄りです。


バガテル公園は1775年にマリー・アントワネットとその領土を購入した義理の兄弟であるダルトワ伯爵との間の賭けのなりゆきとして(どんな賭けだったのかは不明です)たったの64日間で建設されたダルトワ伯爵の居城と公園です。敷地計画は、建築家ベランジェによって一晩で描かれ、 900 人以上の労働者がその建設に取り組んだと言われています。

ベランジェがこの公園を基本構想し、トーマス・ブレイキーが当時非常に人気のあった、英国と中国のスタイルでこの公園を建設することを許可しました。当時流行していた中国のパゴダのイメージや要素も取り入れてはいますが、フランスの庭園計画の伝統的の厳格もしっかり反映しています。

ベランジェは、大理石、ガラス、バスルーム、噴水、明るく陽気な家具を配置しました。 それから、その周りには、半英国と半フランス様式のの庭園があり、公園には、哲学の寺院、ヒンドゥー教のパビリオン、庵など、と合わせ18世紀のロココ調のしつらえもあると言う折衷様式。 さらには自然の造形、例えば洞窟、滝、岩、湖、木の橋、自然を人工的に再現して造形もあるなかなか盛りだくさんの公園のようです。(行ったことないのですが)


このグラスシリーズにこの公園の名前がつけられたのは 1907年から世界で最も重要なバラの花のコンンペティションが行われていスカラと推測します。

この公園のバラ園には1200の及ぶバラの栽培家による、約一万種類のバラがあると言われています。

 そう考えるとこのグラスシリーズにこの名がつくのはごく自然のこと。同じエッチングを施したフォントゥニーよりこちらのモデルの方が先にリリースされたのではないかと推測します。

バガテル公園はパリの中心から至近距離なのに行ったことがないので、今度行ったら自分で写真を撮って来てこの項目をアップデートしようと思ってます。今のところはここまでで。



バガテル公園風景


バガテル公園 人工の滝風景

バガテル公園 バラ園風景


バガテル公園 バラ園風景


バガテル公園 バラ園風景





こちらはラリックの同名「バガテル」花瓶