2016年1月10日日曜日

アンティークバカラ シャルム BACCARAT CHARMES


2017年5月15日更新
 Photo©Galleria Kajorica


一見シンプルで実は制作の大変難しいカットが全体に施されたこのシャルムと言うモデル、アールデコ期のバカラの代表的なデザインでもあり、またタイムレスで現在も古さを感じさせない魅力があります。

複数のレンズを並べた様に反復して周囲が映り込むカットが非常に美しい逸品です。

前から一度使ってみたかったモデルで、ウォーターゴブレットは大振りで一見手に馴染まないかの様に見えますが、実際に使ってみると想像以上に満足度が高く、私のグラス・ランキングのかなり上位の方にエントリーしました。


比較的肉厚なので、薄めのアシッドエッチングのモデルに比べ普段使いにも適しています。



私はこんな風に重ねて仕舞っています。重なった状態も綺麗です。


またSサイズをお求めになった方の奥様は向付にお使いになられるとのお話。
確かに皆口広で少し厚めなので食器としての使用にも適します。SやMサイズは向付、Lサイズやシャンパンクープはアイスクリーム、ヨーグルトやフルーツポンチなどに向いています。




名前の由来
Charme, Charmesという言葉はラテン語のcarmen=歌、呪文とcarpinus=魅力」から派生した言葉で、英語も同意同つずりで魅力(チャーム)の他に魔法という意味もあります。

でももしも魅力とか魔法とかいう意味で付けられたのだとしたらバカラのネーミングとしてはちょっと異色です。

なぜってアンティークやヴィンテージのバカラのネーミングは歴史上の人物や歴史のある町にちなんだりすることが多く、抽象的な概念の名前というのはほとんどないからです。
その所謂「教養のあるネーミング」のおかげでこのブログも成り立っていると言っても過言ではありません。
名前の由来を調べていると次々と歴史上重要なエピソードが出てきてとても勉強になります。そう、このブログに書いていることは持っている知識だけで書いているのでなくその都度いろいろ調べているのですが、知るという行為自体が楽しくてバカラにかこつけた雑学ブログになってしまっています。

少し脱線しましたが名前の由来の話に戻りますと、もちろん魅力(チャーム)と、魔法という意味にも二重にかけているのかもしれませんが、シャルムが掲載されている1933年版のカタログページを見ると、同じページのモデル名は他にTOURAINE MAGENTA LODI  CHAMPAUBERT MARIGNANAと全て地名です。なのでこのモデル名のシャルムも地名ではないかと仮定して調べてみました。

まずはCHARMSだけで調べましたら特記すべき歴史の記述すらない村や小さな町が4つフランス国内でヒットしてきました。中にはバカラ村から西に30kmの町 Charmes-sur-Moselleという町もあり古代ローマ時代のカストルムラテン語castrum -城の語源 - と呼ばれる、軍事防衛拠点)もあったらしいのですが現存する遺跡もなく、特記すべき歴史もなく、それではバカラらしくないように思います。


更にいろいろ調べたところ、きっとこれなのではというのが見つかりました。

ローヌ=アルプ地域圏にCharmes-sur-l’Herbasse シャルム•スルエルバスという非常に古い町がありシャルム城というルイ11世に縁のあるお城があります。
そこに因んでいるのではないかと推測します。あくまでも推測ですそれが一番バカラのネーミングらしい気がします。
こじつけだ!と仰る方は魅力とか魔法の意味を採用して下さい:)

シャルム•スルエルバスのエピソード詳細はアイテム紹介の後をご覧下さい。


2016年2月20日加筆訂正

、、、と長々とシャルム•スルエルバスの事を書いてしまいましたが、同じページのモデル名は他にTOURAINE MAGENTA LODI  CHAMPAUBERT MARIGNANAと全て地名。中でもMAGENTAはイタリア ミラノの郊外の人口2万人程度の町。ミラノに住んでいる私でも取り立て話題に上るのを聞いた事のない町なのに何故バカラの製品名になったのかがずっと頭に引っかかっていました。そして先日ひょんなことからBattaglia di Magenta(マジェンタの戦いの意)という言葉を目にし、調べてみると1859年ナポレオン3世率いるフランス帝国とのちにイタリア国王となるヴィットリオ•エマヌエレ2世率いるサルデニヤ王国 の連合軍が当時事実上北イタリアのロンバルディアとベネト州を治めていたオーストリア帝国に勝った戦いがあったのです。

目鱗!!


で、さらに調べてみるとCHARMS、LODI 、CHAMPAUBERT など全て歴史的な戦いがありました(で地名が戦いの名になっている、、日本で言えば「関ヶ原の戦い」の様に)それも全てフランス軍が勝った戦いばかり。。。(実にフランス的)。。。もしかしたらフランス人ならすぐわかる事なのかもしれません。いかにもヨーロッパ文化に詳しいふりをしていて、こんな事もわからなかったなんて反省です。


というわけでこのシャルムも第一次世界対戦の初め頃1914年にシャルム•スル•ムゼル(Charmes-sur-Moselle)付近でフランス軍がドイツ帝国相手に戦った「シャルムの戦い」の事を指しているという事になります。「シャルムの戦い」についてはまた時間のあるときに加筆します。取り急ぎ訂正まで!


シャルム•スルエルバスに関してはせっかく書いたのでここまま残しておきます:)



シャルムの戦いのスキーム








Photo©Luger 13
シャルム=スル=エルバスのシャルム城 

ローヌ=アルプ地域圏のシャルム=スル=エルバス現在は住人920人のごく小さな町(村?)ですが歴史のある町です。

西暦1000年以前はカール大帝の軍隊の将校出身で後にウィーンの大主教そして聖人になるベルナールロマンの所有する土地でした。


この土地に1160年から1300年にかけて住んだNerpolI一族が現存するシャルム城を建設します。

この城にまつわるエピソードとして特記すべきなのは、地方の弱小一族だったNerpolI家の子孫の一人であるアンベール・デ・バタルネー(Imbert de Bathernay)が少年時代に偶然このシャルム城で即位前に狩猟に来ていたルイ11世に出会います。(ルイ11世とアンベールが出会った年は諸説あり1655年という説と1663年という説があります)これがきっかけでアンベールは将来のルイ11世とすっかり親しくなり、バイヤン、ディオ、ヴェルコールなど周辺の森での絶好の狩猟の助手兼パートナーとなり、様々なスパイ行為や陰謀、秘密を明かされるほどの信頼を得て、アンベールは将来の国王の最高のお気に入りになります。

アンベールは次期国王より様々の贈り物、土地、城からの収入などだけでなくシャルムを含む多くの土地の貴族の称号、ブシャジェ男爵号、モン・サン・ミッシェルの監理の権利など様々な特権を手に入れ、また王室の子供達の教育をまかされたために次世代の王達とも密接な関係が出来、ルイ11世だけでなく、シャルル8世、ルイ12世、フランソワ1世まで四代にわたり最も信頼される王室の顧問となります。

そうして当時のフランスで最も裕福な貴族の一人となり後に財政難の王家にお金を貸すまでになったといいます。


アンベール・デ・バタルネーが顧問となったフランスの王達
左からルイ11世、シャルル8世、ルイ12世、フランソワ1世

シャルム城はアンベールの死後、甥のルネが相続した後何度か転売された後、1652年に近辺の町とともにシャルムを手に入れたグルノーブル議会の顧問でルイ14世の財務大臣フーケ(Fouquet セビーヌ=セヴィニェの項では言い及びませんでしたが、この人大変なプレーボーイだったそうでセヴィニェ夫人にも沢山のラブレターを送っています。 )の友人でもあるジャック・コスト(Jacques Coste の所有となります。

ジャック・コストは城の大規模の修復と内装、装飾を行います。

その後シャルム城はジャックの息子ジャック・ブランジャー・グア(Jacques Beranger Gua)から1776年ペランの貴族シャブリエ・ロシュ(Chabrières Roche)の手に渡り彼が最後のシャルム城の貴族となります。

その後は一時泥棒や不法侵入者等にに荒らされていた時期もあったそうですが、現在は改装され、あるウェブサイトによると、近い将来売りに出るという話もあるそうです。

Photo©Arcyon37
横たわったアンベール・デ・バタルネーの彫像

私はヨーロッパに住んでいるのでこういう中世の歴史なども案外身近に感じることが出来るのでですが、日本からこのブログを見られる方には中世のフランスの話は時間も場所も遠すぎるかもしれません。



そこでもう一人、比較的最近でこの土地にまつわる興味深い人物のお話を加筆します。

Charmes-sur-l’Herbasse シャルム=スル=エルバス出身の有名(?!)人にフェルディナン・シュヴァルという風変わりな人物がいます。私はシュヴァル作の建設物「理想宮」(Le Palais idéal) のことを、つい数年前にパリに住む建築家の友人がFACEBOOKに載せた写真で初めて知りましたし、シャルム生まれである事はこの記事の下調べで知りました。

フェルディナン•シュヴァルの理想宮

1836年シャルム生まれのフェルディナン•シュヴァル(通称ファクター•シュヴァル)は13歳で学校を中退しパン屋の見習いをしていましたが長男の誕生をきっかけににシャルムにほど近いオートリーブで郵便配達夫になります。
1879年のある日ソロバン玉が重なったような奇妙な形をした石につまずきます。その石から何らかのインスピレーションを得たシュヴァルは、以降、仕事が終わると石を拾いにいき、オートリーブの自宅の庭先に積み上げるという行為を続け、その後33年かけて彼の「理想宮」を建設します。

シュヴァルと彼の「理想宮」は近隣の人々に変人とそのヘンテコな創作物と認識されていましたが、シュヴァルの没後、シュールレアリスムの詩人アンドレ・ブルトンが称賛し詩を作成したり、ドイツの彫刻家マックス•エルンストや巨匠パブロ•ピカソも高く評価したため徐々にジャーナリスムにも取り上げられるようになり 現在ではフランス政府により国の重要建造物に指定され、修復も行われ、世界各国から見物客も訪れるようになっています。

最近ではマニアックな旅ブログ等で必見名所にあげている人までいます。

建築や美術評論家の間では素朴派(アート•ナイーフ)、あるいはアウトサイダー•アートに分類されています。


シュヴァルは建築にも施工にも何の基礎知識もなかったといいますが、この感じ、きちんとした建築の教育を受けていたなら「フランスのガウディ」のような存在になっていても不思議はなかったかもしれない、と言ったら。。。言い過ぎでしょうか?
 Photo©Pabix

 Photo©Pabix
郵便配達の制服姿のフェルディナン•シュヴァル

シュヴァル自身は、理想宮には居住せず、地下に墓所を造り、家族と一緒に「エジプトのファラオ」のように埋葬されることを望んでいたそうですが、教会や村人たちの反対で断念。村営墓地に、理想宮に似た(写真下)小規模な墓所を造りました。
Photo©Wikilug
「理想宮」に似せたシュヴァルの墓

因みに、理想宮のあるオートリーブ(Hauterives) までは鉄道駅Romans sur Isere (グルノーブルとヴァランスの間の)からバスが出ていて約50分で到着しますが、本数が少ないため(オートリーブ発は早朝のみ鉄道駅発は正午ごろと夕方のみ)現行の公共交通機関を利用の場合はオートリーブ1泊になってしまうようです。タクシーの場合は片道所要時間約25分35-40 Euro程度の様です。途中シャルムも通過します。
ただし、2016年1月の情報ですのでお出かけの方は出発時に最新の情報をご確認ください。