2019年2月2日土曜日

アンティーク バカラ メディシス BACCARAT MEDICIS


Medicisはフランス語表記でsが入りますが本来はMedici、そうイタリア、フィレンツェの名門メディチ家とメディチ家の人々のことを指すだけあって、それに価する品格のあるモデルです。

カップ部、脚部共にシンプルで飽きのこない形状にゴージャスなエッチングが施されています。アールヌーボーの植物モチーフと幾何学模様を折衷させた独特の魅力があります。










Medicis名前の由来

Medicisはフランス語表記でsが入りますが本来はMedici、そうイタリア、フィレンツェの名門メディチ家とメディチ家の人々のことを指します。
メディチ家はトスカーナ大公国主で15世紀から18世紀にかけてヨーロッパで極めて重要な位置にいた一族でローマ教皇も3人輩出しています。もともとは繊維業、農業、さらに銀行経営で財を成しますが、審美眼に長け芸術の擁護者として世界で初めての美術学校を開いた通称偉大なるロレンツォ(Lorenzo il magnifico) も本名はロレンツォ・デ・メディチ。メディチ家の重要人物で、経済的な豊かさだけでなくイタリアのみならずヨーロッパ文化的な豊かさに大きく貢献します。ロレンツォ・デ・メディチの詳細はミケランジェロの項目も御覧ください。また彼の生涯を語る英伊合作テレビドラマも最近放映がありました。

偉大なるロレンツォこと ロレンツォ・デ・メディチ

メディチ家からは フランスのアンリ二世の妻となったカテリーナ・デ・メディチ(仏語カトリーヌ・ド・メディシス)、フランスのアンリ四世の妻となったマリア・デ・メディチ(仏語マリー・ド・メディシス)などが出ておりフランス王家とは切っても切れない関係。カトリーヌ・ド・メディシスとマリー・ド・メディシスは遠縁にあたります。

カトリーヌ・ド・メディシス とアンリ二世


カトリーヌ・ド・メディシスは偉大なるロレンツォ(Lorenzo il magnifico) の孫娘。1533年フランスの第2王子オルレアン公アンリ・ド・ヴァロワ(後の国王アンリ二世)と結婚し10人の子をもうけ、1559年に馬上槍試合での事故でアンリ2世が死去した後は、長男フランソワ2世の短い治世の後に幼いシャルル9世が即位すると摂政として政治を担うことになります。当時激化していたユグノーとカソリックの融和政策を図るが失敗しパリやフランス各地でプロテスタントの大量虐殺(サン・バルテルミの虐殺)に至りカトリーヌは悪名を残し1588年に亡くなります。



オルレアン公アンリ・ド・ヴァロワとカトリーヌ・ド・メディシスの結婚式

食卓文化食文化を扱うこのブログで特記すべきなのは、カトリーヌは当時先進国であったイタリアの文化をフランスにもたらす重要な役割を果たしたとも言われています。カトリーヌ本人は美食家でフィレンツェ料理を宮廷に持ち込み、フランス独特の料理を始めたと考える歴史家も少なくありません。フランスのお菓子として知られるマカロンもカトリーヌが導入したもの。彼女が嫁ぐまでは宮廷でも手掴みで食べていたフランスにフォークやその他の食器類そして食事作法ソースや地中海産の野菜、アイスクリームフロランタン、シューといった菓子類、また礼儀作法としての清潔、香水も、カトリーヌがフランスに伝えたとも言われています。この詳細は異論もいろいろあるようですが、イタリア料理がフランス料理に影響を与えたこと自体は多くの学者が同意していいます。

Photo ©Dawid Skalec
フランスのお菓子の代名詞のようなマカロンは、実はカトリーヌ・ド・メディシスがフランスに「輸出」したお菓子


フロランタンもカトリーヌ・ド・メディシスがフランスに持って行ったお菓子。
フロランタン、とはフィレンツェのと言う意味ですから明快ですね。





マリー・ド・メディシス と アンリ四世

一方、マリー・ド・メディシス1600年に アンリ四世と結婚しますが、10年後にアンリ4世が暗殺され たため当時まだ9歳で王位を継いだ息子ルイ13世の摂政とし て、フランス王政を担う重責を背負うこととなります。 フランス国民を思い遣った名君として知られたアンリ4世の政治方針を多く破棄 したため成長してきたルイ13世や有力貴族たちの不満を募らせ ます。
数年後には有能なリシュリュー 枢機卿を味方につけようとしますがルイ13世に先手をうたれます。
この辺の詳細はまたバカラ製品のモデル名にもなっている「リシュリュー 」の項目で既に文章も用意しているのですが、「リシュリュー 」現物を手に入れていないのでまだブログに掲載できないでいます。
ルイ13 世による母マリー のブロワ城幽閉、マリー による反乱軍、国王軍による反乱軍の鎮圧 とシーソーゲームを繰り返しリシュリ ュー卿のとりなしでマリーはルイ13 世と和解し、1621年まで王立議会の 一員として政治に携わった後、シュリ ュー卿の 失脚を画策したためフランスを追放され、ブリュッセルに亡命、1642年ケルンで亡くなります。

ル ーベンス画 「マリー・ド・メディシスの 生涯」



、